今回のオーストラリア行きで、いろいろな事に自分なりの確信を持ちました。
その影響が今日の行動に、早くも出てしまいました・・・
今日は高島平団地の西地区で、ちょっとしたイベントがあったのです。
そこが今参加しているバンドのバンドデビュー。
まだ数回にも満たない練習で、しかも強い風の日とあって、途中で楽譜は何処かに飛んでいくはで、大変なデビューではありましたが、楽しむことが出来ました。
打ち上げ飲んだビールも、効いたのかもしれないのですが、解散後に小腹が空いたので、あるチェーン店に入ったのです。
向こうの食事ばかりだったので、うどんかカレーが食べたくなり、結局、両方食べれる店にしました。
しかし、イベントで出された焼きそばを食べ過ぎたのか、セットで頼んだカレーとうどんの内、食べ残したカレーを持ち帰ることにしたのです。
ほとんど手をつけれなかったので・・・
ところが、マニュアルの決まりなのか、持ち帰りは出来ないとのこと。
食券を買う時に、最初に“店内”か“持ち帰り”から、選ばないといけないのにです。
どうしても納得がいかなくて、本部に意見を伝えたい旨を店員に話すと、それ用の用紙もなく、部署も教えられないとの返事。
では、「高島平○丁目店で残した物を、持ち帰りにしたいと伝えたのに、何故ダメなのかか、本社に直接連絡する」と云うと、特別に包んでくれることになったのです。
ダメな理由は、容易に想像がつきます。
持ち帰って食べたモノで、何かあった時の事が嫌だなのと思います。
その場合は、普通の人はどうか分りませんが、持ち帰りは私がお願いしたのだから、その時は自分の責任だと私は思ってます。
今回のメルボルンで、レストランでの食べ残しを、二度ほど包んでもらいました。
美味しい物を食べ残すのは、作った人に失礼だと思うのに他なりませんし、二つの店も当然のように容器に詰め替えてくれました。
過剰な責任追及社会は、同時に責任回避社会につながり、人間としてのダイナミズムを摘む社会に変わり、大袈裟に云えば種の保存そのものに影響が出るように思えてなりません。
命がけの恋というのは、聞いたことがあります。
食べることに、命をかけるぐらいの気概に、ロマンを感じるのは私だけでしょうか。
『あの素晴しい愛をもう一度』- 加藤和彦と北山修
その影響が今日の行動に、早くも出てしまいました・・・
今日は高島平団地の西地区で、ちょっとしたイベントがあったのです。
そこが今参加しているバンドのバンドデビュー。
まだ数回にも満たない練習で、しかも強い風の日とあって、途中で楽譜は何処かに飛んでいくはで、大変なデビューではありましたが、楽しむことが出来ました。
打ち上げ飲んだビールも、効いたのかもしれないのですが、解散後に小腹が空いたので、あるチェーン店に入ったのです。
向こうの食事ばかりだったので、うどんかカレーが食べたくなり、結局、両方食べれる店にしました。
しかし、イベントで出された焼きそばを食べ過ぎたのか、セットで頼んだカレーとうどんの内、食べ残したカレーを持ち帰ることにしたのです。
ほとんど手をつけれなかったので・・・
ところが、マニュアルの決まりなのか、持ち帰りは出来ないとのこと。
食券を買う時に、最初に“店内”か“持ち帰り”から、選ばないといけないのにです。
どうしても納得がいかなくて、本部に意見を伝えたい旨を店員に話すと、それ用の用紙もなく、部署も教えられないとの返事。
では、「高島平○丁目店で残した物を、持ち帰りにしたいと伝えたのに、何故ダメなのかか、本社に直接連絡する」と云うと、特別に包んでくれることになったのです。
ダメな理由は、容易に想像がつきます。
持ち帰って食べたモノで、何かあった時の事が嫌だなのと思います。
その場合は、普通の人はどうか分りませんが、持ち帰りは私がお願いしたのだから、その時は自分の責任だと私は思ってます。
今回のメルボルンで、レストランでの食べ残しを、二度ほど包んでもらいました。
美味しい物を食べ残すのは、作った人に失礼だと思うのに他なりませんし、二つの店も当然のように容器に詰め替えてくれました。
過剰な責任追及社会は、同時に責任回避社会につながり、人間としてのダイナミズムを摘む社会に変わり、大袈裟に云えば種の保存そのものに影響が出るように思えてなりません。
命がけの恋というのは、聞いたことがあります。
食べることに、命をかけるぐらいの気概に、ロマンを感じるのは私だけでしょうか。
『あの素晴しい愛をもう一度』- 加藤和彦と北山修