CubとSRと

ただの日記

権力闘争ではなく、病気で退陣するのなら。

2020年09月10日 | 心の持ち様
 突然の総理辞任意向表明により始まった自民党総裁選も佳境に入り、今や菅・石破・岸田の三氏をテレビで見ない日はありません。
 偶々野党立憲民主党と国民民主党の合流、新党名・新党首(新代表?)決定のための話し合いや選挙活動も行われていますが、もうすっかり霞んでしまって・・・・。でも、それ(そう見えるの)はマスメディアの報道姿勢がつくり上げてる景色でしかないんですからね。

 
「顔色一つ変えずに親の仇と握手する」

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 「他人に後ろ指を指されるようなことはするな」
 子供の頃、そう言われて育った。
 「他人の嫌がることをするな。自分がされた時のことを考えよ」
 中学生の頃、同じく、能く言われた。

 「後ろ髪ひかれ隊」はともかく、「後ろ指さされ組」、なんてのがつくられた時は、「何とあざとい名前だ」、なんて思ったけれど、そのあたりから「後ろ指を指される」というのが、「良い意味での噂話のたねになる」といったイメージを持つようになってきたんじゃなかろうか。
 それまでは、後ろ向きというより内省的な印象の強かった言葉だったが、反対の意味合いが(おそらくは洒落っ気で)つくられ、本来の意味がぼやけてしまった。
 「やばい」、なんてのはそれだけの洒落っ気もひねりもないけれど、いつの間にか全く反対の意味で使われるようになってしまった。
 「何気なしに」が「何気に」になり、「激しく怒る」が「ゲキおこ」になる。

 「洒落だよ。目くじら立てるなって」と言ってる間はほんの一瞬。
 すぐに
 「いいじゃん、別に」と、なり、
 「えっ?そうだったのか?」になる。
 そうやって言いたいことがまともには伝わらないようになる。

 「何、大袈裟なこと言ってんだ。そんなもん、自然に淘汰されるもんだよ。ゲキおこ、なんて今年中に消えるって」
 大方はそうだろう。しかし、一事が万事だ。
 事の大小とか、「是々非々で」、なんて言ってる者の頭に、どれだけ精密な物指しがあるのだ。

 思わず初っ端から脱線してしまいましたが、日本は余りに文化が奥深いものだから、逆に意味を知らずとも符丁のように言葉を遣っても、それなりに通じたように見えてしまう。
 日本人には大なり小なり「謙虚、思い遣り」などの心掛けが自然に備わって居るため、つい「はいはい」とその場は相槌を打ってしまうものだから、気が付いたら妙な意味合いになってしまった言葉が山積みになってしまうのだ。
 
 そんな、或る意味、弱点となるのが「定義づけ」、だ。日本人は余りそこを詰めようとしない。「定義づけ」どころか「措定」でさえしようとしないくらいだから、再措定など全く「菜ソテー?何、それ?美味しいの?」の世界だ。

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                  (略)

 あなたや私が政治家を目指さないのは、目指しても本物には成れないのは、「人の嫌がることが出来ないから」である。理不尽な我慢に耐えられないからである。

 政治家は、人の嫌がることをする仕事である。顔色一つ変えずに親の仇と握手する仕事である。
 思想的にも、性格的にも絶対に受け入れられない相手と膝詰めで話をし、書類にサインして笑顔で肩を抱き合う、そんな仕事である。

                  (略)

 政治家は、「51の益」のために、「49の我慢」をする人である。普通の人間には、ここまでの我慢はできない。
 職種は違えど出来ぬ我慢をしているのは全く同じだ、同様のことをしていると、主張したい人も居るかもしれないが、それはその職業を選んだ段階で、それを長く続けている段階で、政治家の行う理不尽な我慢とは異なるのである。

 今日着任した大臣が、名前も顔も知らない官僚の不祥事に、頭を下げて記者会見をしなければならない。筋違いであれ理不尽であれ、謝るのが仕事である。 その我慢が政治である。

                   (略)

 問題は、どれだけ我慢が出来る人物かということである。出来ぬ我慢をする人物か、痩せ我慢が何処まで出来る人物か、それが政治家選びの第一のポイントである。

                   (略)

 「言いたいことを言って何が悪い」と嘯くような輩は、排除の筆頭である。「今日の日は、言いたいことも言わずに我慢をして、明日に備える」のが本物の政治家である。「今日言えることは、昨日から仕込済のもの」に限られるのである。昨日における明日が「今日である」、そんな下準備をした者だけに発言が許されるのである。

                   (略)

 性急なる有権者は、性急なる政治家を選ぶ。
 性急なる政治家とは、下準備の出来ない者である。大局に立てず、根回しを怠り、我慢が出来ない小物である。
 小物ばかりを選んでいては、国が傾くのは当然であろう。志ある本物の政治家を排除して、小物の天国を作り、それに都だとか道だとか州だとかのトップの座を与えるつもりなのか。

 性急なる有権者は、落ち着きのない有権者である。狼狽した有権者である。有権者の動揺は国の動揺である。
 動揺した国家ほど、侵略に適した国は無い。侵略行為を呼び込むのは、偏にこの有権者の落ち着きの無さなのである。


             「我慢こそが政治である」

                          ~夕刻の備忘録より~



     http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-935.html

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 あれだけ熱望されていたのに、備忘録氏がこのエントリーを挙げられた時には、支持者はもう不満たらたらで、相当数が「もう辞めろ、すぐやめろ」と罵り始めていました。
 そうなると、これまで大して支持をしているとも思えなかった人々が、昨年までの政権に言っていたように「まだ、始まったばかりじゃないか」と言うかと思ったら、そんな声はちっとも聞こえてこない。
 なのに、「報道2001」なんか見てると、支持率は60%を常に超えている。
 テレビで流さないだけなんですね、支持者の声を。
 だからと言って、支持の様子に以前の強固さは見られない。

 やっぱり、「51の益」のために、「49の我慢」をする、ということをつい忘れてしまうんじゃないか。
 「顔色一つ変えずに親の仇と握手する」、のが政治家なんだ、ということを失念しているんじゃないか。
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 安倍総理は権力闘争に敗れて「退陣する」、と言っているわけではありません。病気だから、準備万端整えて、「退陣する」と言っている。
 「準備」というのはこれまでやってきた仕事の、結末までの道筋確保です。 決して「あとは勝手にやってよ」という職場放棄ではありません。
 ならば、与党自民党から出る候補者の在り方は。
 
コメント
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