8月6日(土)
昨日(金)は、10時半から歯の治療。
被せ物をして、基本、次週12日(金)に様子確認、ということで一応の一区切りという予定だった。しかし、ちょうど盆にかかる微妙な日。
それでかどうか分からないが、「治療はうまくいった」ので来週の金曜日まで待つのではなく、週明けの月曜、病院から電話をかける。治療後の状況を聞くだけにして、問題がなければ12日はなしにしようかと思うがどうか、とのこと。
行けば診察費が発生するので「電話で済ませられればその方が」との打診。
確かに、基本、週に一度の通院だけれど、やはり病院は一人でやっているわけではないのだから、職員の盆休みの調整があるんだろう。こっちとしても電話で済めば時間も金もかからないのだから、それにこしたことはない。
ということで来週月曜の電話を待つことになった。それまでに不具合・痛み等がなかったら、次回は10月1日。
11時前には治療が終わる。70前で歯が(根、だけど)全部揃っている(正確には「無駄だから」、と一本抜いている)のは素晴らしいと言われる。
確かに大方は虫歯だけど、根さえあればできることは色々ある。
その意味では長生きの必要条件の一つは確保している、ということになる。
以前は、無理に長生きしないで、退職したら「ほどほどの歳であの世往き」の方がいいんじゃないか、と思っていた。
そりゃあ親には長生きしてほしかったけど、それは子供の立場としては、の話。ついに子供を持つどころか結婚することさえなかった一人の爺さんとしては「別に長生きする意味もないし、惜しまれることもない」。
そう思っていた。
が、コペ転が訪れた。
「長生きすることに意味なんかない」「惜しまれたってどうにもならない(生き返るわけじゃない)」。確かにそうだ。
そして、どうしようもないことを考えたってどうしようもないだろう。
「杞憂」の杞さんは、「空が崩れてきたらどうする」という人類が持ってもどうしようもない大心配を発明したけど、本当にどうしようもない。
でも、「じゃあ死ね。今すぐ死ね」とか「お前のことなんか誰も惜しまないよ」とか本心から言われたって、それは何の解決にもならない。
年金を受け取るようになって段々に実感できるようになった。
「人間とは社会的存在である」ということの本意を、だ。
長生きであろうが早死にであろうが、とにかく生きている間は社会を構成している一員だ。年金であろうが給料であろうが、犯罪行為の結果手にした金であろうが金は金、だ。誰だってその金を使って生活する。
ということはその金を受け取って、今度は自分のものとして使って生活をする者もいるということだ。働かないで年金もらっているというけど、その年金を使って生活しているということは、働いている人に年金を「右から左に受け流し」ている、ということで、今度は働いている人がその金を「右から左に受け流す」ということだ。まさに「金は天下の回り物」。そしてそこには「人間」が必ず「金を使う」という形で介在している。
ということは、人間は生きている限り「社会を動かす」という大事な役割を持っている。それを生きている限り、実行している
「惜しまれる」云々みたいな感情的な捉え方で終始すべきではない。
年金であろうが生活保護であろうが、日本人たるもの、生きている間はお金を使うべし。そうやって、社会を動かすべし。