CubとSRと

ただの日記

歯の治療を終えて

2022年08月17日 | 日々の暮らし
 8月6日(土)

 昨日(金)は、10時半から歯の治療。
 被せ物をして、基本、次週12日(金)に様子確認、ということで一応の一区切りという予定だった。しかし、ちょうど盆にかかる微妙な日。

 それでかどうか分からないが、「治療はうまくいった」ので来週の金曜日まで待つのではなく、週明けの月曜、病院から電話をかける。治療後の状況を聞くだけにして、問題がなければ12日はなしにしようかと思うがどうか、とのこと。
 行けば診察費が発生するので「電話で済ませられればその方が」との打診。

 確かに、基本、週に一度の通院だけれど、やはり病院は一人でやっているわけではないのだから、職員の盆休みの調整があるんだろう。こっちとしても電話で済めば時間も金もかからないのだから、それにこしたことはない。
 ということで来週月曜の電話を待つことになった。それまでに不具合・痛み等がなかったら、次回は10月1日。

 11時前には治療が終わる。70前で歯が(根、だけど)全部揃っている(正確には「無駄だから」、と一本抜いている)のは素晴らしいと言われる。
 確かに大方は虫歯だけど、根さえあればできることは色々ある。
 その意味では長生きの必要条件の一つは確保している、ということになる。

 以前は、無理に長生きしないで、退職したら「ほどほどの歳であの世往き」の方がいいんじゃないか、と思っていた。
 そりゃあ親には長生きしてほしかったけど、それは子供の立場としては、の話。ついに子供を持つどころか結婚することさえなかった一人の爺さんとしては「別に長生きする意味もないし、惜しまれることもない」。
 そう思っていた。

 が、コペ転が訪れた。
 「長生きすることに意味なんかない」「惜しまれたってどうにもならない(生き返るわけじゃない)」。確かにそうだ。
 そして、どうしようもないことを考えたってどうしようもないだろう。
 「杞憂」の杞さんは、「空が崩れてきたらどうする」という人類が持ってもどうしようもない大心配を発明したけど、本当にどうしようもない。
 でも、「じゃあ死ね。今すぐ死ね」とか「お前のことなんか誰も惜しまないよ」とか本心から言われたって、それは何の解決にもならない。

 年金を受け取るようになって段々に実感できるようになった。
 「人間とは社会的存在である」ということの本意を、だ。
 長生きであろうが早死にであろうが、とにかく生きている間は社会を構成している一員だ。年金であろうが給料であろうが、犯罪行為の結果手にした金であろうが金は金、だ。誰だってその金を使って生活する。

 ということはその金を受け取って、今度は自分のものとして使って生活をする者もいるということだ。働かないで年金もらっているというけど、その年金を使って生活しているということは、働いている人に年金を「右から左に受け流し」ている、ということで、今度は働いている人がその金を「右から左に受け流す」ということだ。まさに「金は天下の回り物」。そしてそこには「人間」が必ず「金を使う」という形で介在している。

 ということは、人間は生きている限り「社会を動かす」という大事な役割を持っている。それを生きている限り、実行している
 「惜しまれる」云々みたいな感情的な捉え方で終始すべきではない。
 年金であろうが生活保護であろうが、日本人たるもの、生きている間はお金を使うべし。そうやって、社会を動かすべし。
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国際勝共連合について再掲(勝共=共産主義に勝利する、の意)

2022年08月16日 | 日々の暮らし
 さっきネットで見た動画に
 「今の若者は、中華民国と中華人民共和国の違いを知らない者が多くなったんじゃないか。学校ではほとんど教えなくなったみたいだし」
 とのコメントが流れて、そういえば確かに「日本史」となってからは、近代史は大正どまり、第一次大戦までさらっとやった程度、なんて聞いたような気もするな、と。
 70年安保のことも知らないものが、朝鮮戦争前後の日本の悪戦苦闘振り、岸信介がA級戦犯とされたところから総理大臣として云々、なんて知るわけもない。
 前に書いた日記の一部です。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 2022年07月23日 

 なぜ「国際勝共連合」の方向から説明しようとしないのか。
 
 朝鮮戦争で米軍はchina共産党や、ソ連の教育を受けた北朝鮮軍と戦った。日本を占領統治中のGHQは、早い話が直接初めて「共産党軍」と戦うことになった。
 そこで米国は、共産党軍がこれまであった既成の軍隊とは異質のものだと痛感することになる。考え方が全く違うからだ。
 軍隊というのは国益を守り、追究するためにある。しかし共産党軍は「共産主義を実現する」ためにある。まずは「既成社会を破壊する」のが仕事、だから、戦い方にタブーは一切ない。守るべき「国」の概念がなく、実現されるべき共産主義社会は、まだない。存在しないものを創出するためにそこを「更地」にする。
 国の「誇り」も「自負」もないから、「名誉心」なんてないし「共産主義思想のために死ぬ」、という考えも、実はない。まだ「理想である共産主義社会」は現実にはない、のだから。
 あったとしたらそれは「共産主義のために~」ではなく「共産主義社会を実現させようとしている(現実の)指導者のために~」と解釈(統括)される。


 そんな恐ろしい連中を、今後、実質の勝者である米国が御していかねばならない。
 「敗戦国日本と、日本の統治下にあった(併合されていた)朝鮮半島に、米国と同じく、反共団体を作って活動させよう」。
 というわけで、アメリカの肝煎りで、李承晩を大統領にしたのと同じように、文鮮明に「(国際)勝共連合」を作らせた。同じく岸信介に同様の団体を日本にも作らせるため、文鮮明の活動に便宜を図ってやるよう指示してくる。


 だから、「国際」勝共連合は米・日・韓の「連合」ということだ。米国の指示で作られた共産主義思想の蔓延を防ぐことを目的に作られた団体だ。
 岸信介が「アメリカのエージェント」となるのは当然のことで、でもそれは敗戦国の指導者として当然採るべき国復興の次善の策だった。
 
 ところが「勝共連合」として「共産主義に勝利する」ための活動はまともに行われたとは言い難い。
 李承晩が「アメリカの後ろ盾を得て、日本に対して何をしたか」、を思い出せば文鮮明が「アメリカの後ろ盾を得て、日本に対して何をしたか」、は容易に想像できる。


 それでも書いておきたいのは、1970年、「70年安保(自動継続)」の前。
 大阪万博や三島由紀夫の事件であまり人々の口の端に上らなくなったが、学生運動は続いており、共産主義革命にシンパシーを感じる日本人は今とは比較にならないほど多かった。
 その時は、まだ「勝共連合」の名前は革命阻止の旗印の一つとして見られていたという事実だ。

 (「国際勝共連合」=「共産主義に勝利する連合」、の意味。「連合」とは、日・米・韓の三国を指す。)
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何のための報道か

2022年08月16日 | 心の持ち様
 重要情報
 ・・・・・
 (一部のみ転載)

 
◎何も世界平和統一家庭連合問題だけに限らずとも、我が国のマスコミは 頼りにならない:前田正晶

 山上徹也の安倍晋三元総理の殺害以来、我が国の報道機関は申し合わせたかのように統一教会関連の情報と、言うなれば旧悪を詳細に報道し始めたのだった。
 お陰様でこの組織がカルトなのか邪教なのかすらよく知らない私等は、名称変更があったのだと知り得たし、その変更に自民党が絡んだのかと疑いがあった事も教えられた。過去の騒動を知らない方が初めて「世界平和統一家庭連合」と聞けば統一教会のことだったとは気付かないかも知れないと思った

 私は既に指摘してあったように、山上徹也が安倍晋三元総理を殺害して、 パンドラの箱を開けたのだと思わずにはいられなかった。彼らマスコミはあらためて、統一教会の実態と我が国で何をしたかったのかと何をしたかを詳細に世間に報じだしたのだった。

 だが、同時に「何故か?」と痛感したことがあった。それは「我が親愛な るマスコミは山上徹也の件がなければ、家庭連合について取材してあったあれほどの膨大な(とでも言いたくなる)情報を流す意図が無かったのか」ということなのである。如何に無知な私であっても、合同結婚式とそれに伴う哀しい話や霊感商法や教会に吸い上げられる寄付のことくらいは承知していた。だが、今回報道し始めた政治との関連などは、関西風に言えば「聞き初めや」なのだった。

 彼らが今更のようにあの当時教会に対抗して活動された紀藤弁護士等にテ レビに出演願って、世界平和統一家庭連合という名称になるまでの経過と 旧悪を報道し始めた姿勢には「一体全体、彼らは如何なる理由で統一教会 の活動は決して消滅していた訳ではない事を、広く知らせようとしなかったのか」との疑問を感じた。こちらが不勉強だったと言われればそれまでだが、山上徹也があの暴挙に出るまでのような寄付金吸い上げがあったのならば、何故警鐘を鳴らす報道をしなかったのかと思った。

 パンドラの箱の中身はここまでで終わらなかった。次に出てきたことは政治というか自民党との絡みだった。彼らは「アンケート」なる代物を自民党の議員に送りつけて「統一教会との関連」の調査を始めた。私は「彼らがそれ以前に自民党の議員たちと教会の関連の度合い」に関する取材をしていなかったとは到底考えられないのだ。彼らは安倍晋三元総理が凶弾に倒れられたことを奇貨として、一斉に更に取材し報道を開始したと疑っている。

 彼らは昨12日には岸田内閣の新副大臣・政務官の中の16名だったかに関連があったと「人が犬を噛んだ」かのような報道振りだ。何もこの件に関してだけではなく、マスコミは何処の誰が祝電を打ったかとか会合に出席して祝辞を述べたとか等々を報じてあった。だが、不思議に感じたことは「だから大臣を辞せよ」とか「この職に就くな」とか「国民に謝罪せよ」 という類いの責め方はしないのだ。

 専門家やジャーナリストの中には「国会議員が彼ら教会を頼るのは公職選挙法という縛りがあるからだ。現行のこの法律がある限り、選挙運動に無料で奉仕してくれる組織があれば依存するのも無理はない」と肯定しているのか、教会を批判しているのかがよく解らない解説をする人もいた。「なるほど」と思って聞いた。

 では、「何の為の報道か」なのだ。私は彼らが本気で攻め上げるべき対象は世界平和統一家庭連合だとしか考えられないのだ。教会との絡みがある議員は自民党に多い。だからこそ、マスコミは議員たちが如何にも悪いことをしているかのように思わせる報道をする。だが、「だから、こうせよ」という報道ではなくて、ただ単に過去にこういうことがあったと報じ るだけ。

 「自民党よ。反省して政権の座を降りなさい」とでも言う気かと思えば、そうではないようだ。彼らは「政治は責めても宗教団体(なのだろうか)は責められない」とでも言う姿勢なのだろうか。何事に関してもそうなのだが、彼らマスコミの言うことを聞いていても実態がよく解る訳でもなく、サッパリ役に立たないので困る。







 わたなべ りやうじらう のメイル・マガジン
               頂門の一針 6229号 より
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八月十五日

2022年08月15日 | 心の持ち様
 散歩から戻って、さっきアクセス解析を見たら、以前に書いた日記にアクセスがあったことが分かった。
 有難いことに、こんな以前の日記にも目を通してくださる方があるらしい。

 8月15日と言えば、やっぱりNHKは「太平洋戦争」と捉えた過去のドキュメンタリー番組をいくつも流していた。
 ここ数年はコロナ禍のため、あまり聞こえてこなかったが、靖国神社参拝のこともまた次第に喧しくなるのだろうか。

 以前に書いた日記というのは以下のものです。↓
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「先祖祀りもしない者が」
               2015.12/04 (Fri)

 父の一周忌にお経をあげてもらうため、先月下旬から田舎に帰っていた。
 本当なら十一月半ばなのだが、遅くなった。

 一年。あっという間だ。父の法事より、自分の病気入院などを優先した。親不孝者である。

 自分の入院加療は二度に分かれたとはいえ、病院からすれば内視鏡を使った簡単なもので、現に今は以前と変わりなくこうやってお気楽な日記を書いている。が、父は戻っては来ない。「私に今、何かできるのか」、なんて言うまでもなく、何もできはしない。

 「親不孝者」と書いたけど、じゃあ孝行していたら親はいつまでも生きていられるかというと、そんなわけはない。
 残された者にできることって一体何だろう。立派な法要を行うことか。
 繰り返すけれど、死んだ者は生き返っては来ない。
 
 「残った者」、とか「残された者」という言い方に、なにか引っ掛かる。
 他界したものは「成仏」したのだ。「仏に成った」のだ。
 だったら、斯界(此岸)に居る我々はまだ仏に成ってないのだ。やらねばならないことがあるのだ。
 つまりは、「まだ宿題が残っているのだ、だからこの世は修行の場なのだ。酷く言えば刑務所なのだ」ということか?
 いや、我々は修行僧ではない。ましてや囚人ではない。
 ということは、我々は「残された者」「残った者」ではなく、この世を「継ぐ者」「継承者」であり、次代に「繋ぐ者」である筈だ。

 そうするとやっぱりできることは、それぞれの事を、それぞれの意志で取り組み続けるということ、しかなかろう。
 で、それは去った者のために、ではなく当人のために、ということになる。そしてそれは周囲のために、ということにもなる。
 更にそれはめぐり巡って世のため人のため、となっていく。

 そんなことを考えたら、以前、妙に違和感を持ったことが、同じ理屈からだったことに気付いた。
 大阪府知事だったか、大阪市長だったか、祖母に叱られたという話だ。ニュースで何度か目にした。
 「靖国神社に参拝する、と言ったら『おじいさんの墓参りもしない者がええカッコするな!』と叱られた」
 、と。

 「先祖祀りもしない者が、一族に戦死者もいないのに何故靖国神社に参るのか。自分の家の墓参りが先だろう?」
 何となく、つい
 「そうだそうだ。先に墓参りしろ。ええカッコするなよ」
 と思ってしまいそうになる。

 でも、
 「先に先祖祀り、しろよ」?
 靖国神社の英霊達は彼が参拝したらそんな風に思うのだろうか。
 いや、既に神となった英霊達にそんな感情はあるまい。そう言うのは生きている者同士が言い合うことだ。神の気持ちを忖度したって意味はない。

 それよりも我々は「英霊達は自身の身近な人々を守るために命を捧げた」ということをもっと直視すべきだろう。
 「身近な人を守るために」
 これは家族を養うために額に汗して働くことと同じ道理だ。
 我が身を捨てて家族を守る、身近な人を守るということは、継承者に後を託すということだから、国を守るということになる。
 だったら、我々は血のつながりはなくとも、国民として彼らに守られたのだ。そして彼らに後を託された「継承者」なのだ。
 そう考えたら参拝するのは当然のことではないか。参拝ができなければ遥拝すればいいではないか。
 「墓参りしてないから、縁もゆかりもない靖国神社に参拝するな」、はあまりにも身勝手な暴論だ。

 南方に出征していた父は勝ち戦の中で敗戦を知り、帰国した。そして地道に生き、子を育て、昨秋他界した。
 先日亡くなった水木しげる氏。ラバウルで死線を越え、片腕を失って帰国、日本人の心に大きな影響を残した氏より一つ年上だった。
 有名無名の違いはあるけれど、どちらもやっぱり働くことで家族を守り、戦争賛美などはせず、結果としてその先にある「国」を守ることをしてきたのだ。戦後も、そうやって国を守り続けてきたのだ。

 勿論、「国があって家族がある」のではない。けれど「家族があって国がある」のでもない。
 我々民草が熱源となって国は成り立つ。


 もう一つ。
 蛇足ですが、靖國に祀られている英霊は既に神霊となられ、近い将来には神に昇格されます。
 だから我々は神を拝するつもりで靖国神社に参拝する。決して弔いに行くのではありません。お寺参りと墓参りは違うでしょう。
 英霊達は血のつながりのない我々後生(こうせい)の日本人のために、同じ日本人であるというだけで、命を捧げて下さいました。
 「八百万の神々」をもっと丁寧に言うと「八百万の神たち」。「八百万の神の方々」とは言いません。
 「方」は目上の人に対して用いる言葉です。貴族などは同じ「人」ではないから、ということで「公達」と称していたことはご存知の通りです。
 ということで、英霊を丁寧に言うときは英霊達。「英霊の方々」では、英霊を目上の「人」と目していることになり、神にはまだ遠い、ということになります。

 「天皇制」という言葉は、「君主制」という言葉にみられる「対立(敵対)関係(いずれ打倒、廃止すべきもの)」、を意識して、共産党によってつくられた悪意からの(と言って悪ければ否定的な)新造語です。
 この言葉が何の気なしに使われるようになったこと(保守勢力と言われる人々にも使われたりする)と、「天皇家」という言葉がよく使われるようになったことと、は不可分です。
 勿論、「天皇家」というものは存在しません。あるのは國體の真ん中に位置する「皇室」だけです。天皇を継承する(皇統を継ぐ)のは皇族であって、どこかの一家ではありません。
 また、肇国(ちょうこく)以来の元々尊い存在である「皇室」に「御」をつけることはしない。つけなくても初めから尊い。
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アーモンドバター

2022年08月14日 | 日々の暮らし
 8月2日(火)

 昨日はカブで買い物へ。
 とにかく暑いので、カブで行って正解だった。全身に風を受けなけりゃやってられない。
 
 買い物の目的はアーモンドバター。あとはついで。

 数年前、いつも行く生協の催し物スペースで、近隣の道の駅等で売られている特産品を並べていることがあった。
 その中にちょっと高いかな、と思ったけれど分量はそれなりにある「アーモンドバター」というそのままの商品名のパックがあった。
 こんなにたくさんは要らない。もっと小さなパックはないのか、とそこにいた店員に聞く。
 「この大きさのしかないんです。でも、これ、美味しいと評判ですよ。私は食べてないけど」
 屈託のない笑顔で言われると、何を無責任な、と腹を立てる気には全くならない。
 実は、この商品、テレビで見て知っていた。だから「えっ」と思って手に取って生産者名を見た上で、の質問だった。

 姫路の駅前の普通の喫茶店で、店で出すトーストにこのアーモンドバターを塗って焼く。それが大変好評で、アーモンドバタートーストばかりが売れる。
 これはたまらん、と店主はアーモンドバターづくりに専念せざるを得なくなり、店の営業時間を短縮したとか営業日を減らしたとか何とか。

 焼いてから塗るのではなく、多めに塗って、それから焼く。焼いてから塗るとまあ、どうってことのない味なんだそうだ。説明にもそう書いてある(筈はない)。
 買って帰ってやってみる。なるほど。細かく砕かれたアーモンドが再びバターと一緒に焼かれることでアーモンドの香ばしさが際立つらしい。
 
 以降、すっかりファンになって、買いに行こうとするのだが、近所にはない。しょうがないから、それだけを買いに何度か大沢(おおぞう、と読む)の道の駅に行った。(店員はその道の駅から来ていた)
 そうこうするうちに、東条の道の駅にも置いてあるのが分かり、ふらっと出た時についでに買って帰るように。

 それが最近行くようになったひよどり台の農産品店にも置いてあるのが分かった。ただ、パッケージが違う。生産地は?と裏面を見ると姫路ではない。
 「ついに偽物が!」と思ったけれど、能々見ると住所は姫路で、あの喫茶店主の名前も記載されている。アーモンドバター、どうもますます好調のようで、新たに工場を立て、そちらで大量に生産するようになったらしい。
 いずれにしてもこれは便利。今後はここで買うことにする。

 ・・・・ということで、鵯台まで来た。
 ついでの品物をいくつか買って、店を出る。

 店を出て歩きながら、何か忘れているような気がしてレジ袋の中身を思い出そうとする。立ち止まって開けてみようなんてことはしない。忘れているのはいつもの鯛焼きか?いや、今日は買わない、と決めたはずだから。まだ気は変わってない。

 ・・・・肝腎のアーモンドバターを買うのを忘れていたことに気づいた。
 良かった。カブまで十数歩。
 引き返して改めてアーモンドバター一つ持ってレジに並ぶ。
 例によって「あ~あ、何やってんだ」などとは全く思わない。
 「走り出す前でよかった」
 「ヘルメットホルダーのキーを回す前でよかった」

 走り出してから「あっ」と思えば、その瞬間、走行に支障をきたす。これが一番危険だ。
 以降、気にし続けるから、注意力が散漫になる。考えないように意識するのは簡単だが、不意に思い出してしまうものだから、気が抜けない。これも厄介だ。
 ヘルメットホルダーを開錠すれば、また施錠をする煩雑さに「もういいや、買うのは次回にしよう」となって、後で「やっぱり買っときゃ良かった」と渋面を作る。

 短時間に自分の行動を肯定的に捉えることができるようになった。
 これぞ老人力。年の功。精神面の「功夫(カンフー)」。






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