遠い遠い昔、はるかな西のむこうには、はてしない大陸がありました。
大陸はみどり豊かでしたが、中央につらなる峰々は雪をいただいてとても厳しく、深い森は黒々とした下闇にいくつもの恐怖を棲まわせておりました。
人間たちは、ほうぼうの谷間や川べりの、ほそぼそとした平地に、まるで青ざめた銀杏の若木のように、震えて縮こまっていました。彼らは木の葉陰をかすめ歩くリスのように、ちいさくて、おくびょうで、謙虚でした。後の世に、地上をわがもの顔にのし歩く傲慢さは陰も形もなく、まだ森に棲む多くの獣たちの、一種類にしか過ぎなかったのです。
知性の黎明を迎える前の、朝もやのようなまどろみが、世界にたちこめていました。大陸は、宙(そら)の神に打ち倒された巨人の亡きがらのように、深い眠りの底で、たっぷりと夢をむさぼっていました。そのかすかな寝息は、長い長い単調な序曲のようでもありました。
この頃の大陸を支配していたのは、もちろん人間ではなく、一匹の竜でした。大陸の中央に、星座のように並ぶ七つの峰々を、卵のようにゆうゆうと抱いてとぐろを巻く彼女の名は、アングルボダといいました。津波のような巨体に、銀のうろこと炎の舌、清らかな翡翠の瞳をもつ、美しくも恐ろしい女の竜でした。
大陸のすべての生き物は、森も、獣も、魚も、羽虫の類いにいたるまで、すべて彼女を深く敬い、恐れていました。彼女が峰の向こうに優雅に寝そべっている間は、大陸は平穏に暮れましたが、一度怒り出すと手がつけられませんでした。彼女はほんのささいなことで機嫌を損ね、そのたびに森を焼きはらったり、川を煮たたせたりしました。逃げ惑う獣たちを踏みしだき、山河を皮のように剥いでは、大地に癒しがたい傷を負わせました。
しかしそこは、彼女もやはり女性だったためでしょうか、後悔することも早く、怒りがおさまると今度は傷ついたものたちに深い同情を寄せました。そして月の光を一万日浴びた岩水晶から得られるという、月の涙と呼ばれる不思議な水薬を、惜しげもなく大地にふりまきました。月の涙には命をよみがえらせる強い力があり、それを一滴でも浴びると、傷ついた肉体は清らかに癒えて、冥界に赴こうとする魂も強引に呼び戻すことができました。山河は再びよみがえり、みどり深い森に獣たちの声が響きだし、清い水があちこちに流れだして、大陸はたちまちのうちに元の姿を取り戻しました。
アングルボダは、時には母のようにやさしく、時には暗黒の嵐のように恐ろしく、そして時には恋の季節の娘ギツネのように気まぐれでした。大陸の生き物たちには、彼女を奉り、つつしんで従うことしか、この世に生きるすべがありませんでした。
けれども、そんなアングルボダにも、かわいい子供があったのです。
彼女は、六匹の息子たちと、八匹の娘たちを、それぞれ小さな山や谷や湖のほとりに住まわせ、火山の岩の湯や金銀の鉱脈を食べさせて養っていました。子供たちはみな姿も頭もよく、彼女は何よりの自慢にしていました。中でも特に愛したのが、アイノマという名の末娘でした。
アングルボダはアイノマを大陸の南の日当たりのよい湖に住まわせ、極上の瑠璃の鉱脈を食べさせて育てました。聡明で性質も穏やかなアイノマは、鹿のような美しい声の持ち主でもあり、月の美しい夜などには、川底で銀砂を吐く貝のように、不思議なことたまの詩を静かに歌いました。そんなアイノマの姿を、いとおしげにながめるアングルボダの顔は、ほほ笑んで、いかにも幸せそうに見えたものでした。
アイノマはまた、竜にしては珍しく弱い生き物たちに心寄せ、小鳥やネズミや野花を愛し、びくびくと木陰に隠れる人間の祖先たちにも、優しく声をかけました。ですから、生き物たちは竜の中では誰よりもアイノマを慕いました。母アングルボダが機嫌をそこねた時も、アイノマにとりなしを願えば、何とかことがおさまることもあったのです。
ただ、ほんの少し、アイノマにもの思いがちなくせがあることを、母は心配していました。『もの思い』が、ときにはとりかえしのつかない事になりかねないことを、アングルボダはよく知っていたからです。
さて、それは珍しく大陸に平穏が百年も続いた時のことでした。
アングルボダも子供たちも眠りがちで、荒れることはほとんどなく、生き物たちはみな平和に暮らしていました。変わったことと言えば、時おりに響きわたる山鳴りのような竜のいびきに驚いて、昼寝の途中の子ウサギが泣いて目を覚ますくらいのことでした。
すぎゆく季節の神が描く時の営みは、とても単調で、まるで二色(ふたいろ)の格子模様のようでした。生き物たちは規則正しく生まれたり、死んだり、芽吹いたり、枯れたりしました。悲哀は歌われることなく、平穏になれた生き物たちの魂も、少しずつ怠惰の殻をまとおうとしていました。世代を経た生き物たちの中には、アングルボダの乱心をもう伝説の中でしか知らないものも多くなり、生きることも、死ぬことも、そうたいしたことではないかのように、みなが思うようになっていました。
このまま永遠に幸福が続けばいいのにと、だれもが思っていましたが、しかしその気持ちの裏では、本当は少しずつみなの不安はふくらんでいました。そしてやはり、待っていたかのように、不安が張り裂けるその日はやってきたのです。
アイノマが病になったのでした。
母と兄や姉たちが眠っていた間にも、アイノマは時おり目を覚ましては月星をながめ、ものも言わずに何かを考えていました。変調に気づいたのは、山ひとつ向こうの沼地を寝床にしていた、すぐ上の兄の竜でした。
「おかあさん、おかあさん、起きてください。アイノマがおかしいのです」
兄はアングルボダの所へ飛んでいくと、自分の顔がすっぽり入ってしまいそうな母の耳穴に、大声でよびかけました。母はまだ眠そうなまぶたをうっすらとあけ、寝ぼけ眼で息子の訪れを迎えました。
「おまえか、息子よ。どうしたんだい」
「おかあさん、アイノマが返事をしないのです。いつも寝言でよびかけると、寝言で答えて来たのに、それがないので見にいくと、まるで石のように固くなっているのです。息はしているのですが、かすかにです。呼んでも目をあけません。うろこにも光なく、まるで砂をかぶっているようです」
「どうせいつもの『もの思い』だろう。あの子は何でも深く考え過ぎてしまうんだよ」
アングルボダはそう言いつつも首を起こし、アイノマのねぐらをのぞきました。アングルボダは、ほんの少し背伸びをしてみるだけで、大陸中を見渡すこともできましたから。
アイノマは、半身を湖に沈め、細くやつれた首を力なく岸に横たえていました。彼女の瑠璃色の美しいうろこは鮮やかな色を失って、まるで泥砂の塊のようになっていました。いつもと様子が違うことは一目でわかりました。アングルボダは跳び起きて、どしんどしんとアイノマにかけよりました。
「娘よ! どうしたんだい? 返事をおし!」
アイノマは答えず、瞳も縫われたように閉じられたままです。耳を近づけると息の音が聞こえますが、それはいつ消えるともわからぬかすかな音でした。アングルボダは兄のひとりに命じて、月の涙をもってこさせました。
「だからもの思いはほどほどにせよと、あれほど言ったのに。さあもどっておいで! 母を心配させるでない」
アングルボダはアイノマに月の涙をふりかけました。しかし、何滴ふりかけようと、娘はいっこうに目をあけません。母は驚きのあまり、心臓が奈落に吸い込まれるように思いました。
「なんてことだ! この薬がきかないなんて、そんなことあったためしがない! アイノマよ、アイノマよ、どこまでいったんだい?」
アングルボダは何度も呼びかけましたが、娘は目を覚ましませんでした。取り乱したあまり、アングルボダは空を裂くような叫びをあげました。すると火の山が同調して苦しげにうめき、岩の湯が涙のようにちょろりとほとばしりました。姉のひとりがあわてて彼女をなだめ、言いました。
(つづく)