世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

幸いのうさぎドラゴン・3

2015-05-27 06:47:04 | 月夜の考古学・本館

 アングルボダはびっくりしました。なぜならこの世で、自分のように強くて賢い存在は他におらず、他のものはみなひ弱でばかで、誇りなどみじんももてないものだと思っていましたから。それなのに、ミミズのように取るに足らぬものでさえ、決して自分をばかなものとは見下さないのです。生きるものとして、自分にはこれだけの知恵と力があるのだと、誇りさえもっているのです。
 大陸中の森をひっかきまわし、川や湖をことごとくさらっても、目当てのものは見つかりませんでした。アングルボダはためしに、見るからに弱くて知恵の足りなそうな子リスや、生まれ方を間違えたアブラムシなどを捕まえ、アイノマの口元に運びました。しかしアイノマはそれらを食べようともせず、無理に喉に押しこもうとすると、痛々しく腫れ上がった舌の先から、血がたらたらと流れて来るのです。
「どうか、目を覚ましておくれ、死なないでおくれ」
 アングルボダは娘の前に、とれるだけとった弱い生き物を山積みにして、叫びました。しかしアイノマは決して目を開けませんでした。美しかったうろこははがれ落ち、ところどころから膿のような汁が滴り落ちて、まるで彼女の体は、崩れそうな雨後の砂山のようでした。アングルボダは気が狂いそうでした。もしこの娘が死んでしまったら……そんなことを考えるだけで、心臓に氷の刃が突き付けられるようでした。恐怖など感じたことのない偉大な彼女は、それが生まれて初めて味わう恐怖だということさえわからず、ただ天地がぐらぐら回るほどに混乱していました。
 しまいに、どんな生き物をもってきても、娘をなおせないとわかると、彼女は実を引き裂くような叫びをあげました。生き物たちの恐怖の予感が、湿った風となって大陸を吹きわたりました。
 彼女は、狂ったようにどんどんと大陸を踏み荒らし、火を吹いてそこらじゅうの森を焼きはらいました。涙は毒水となって川や湖を汚し、のろいの言葉は空を灰のように汚しました。彼女は大陸の生皮をばりばりと剥ぎ、憎しみという憎しみをまき散らしました。生き物は逃げ惑い、大陸はおそろしい地獄となりました。
「だれか、助けておくれ、娘を、助けておくれ……」
 アングルボダは泣き狂いつつも、病んだ娘のいる湖だけにはけっして触れませんでした。だから賢い生き物はみな、アイノマの湖に逃げ込みました。シカも、ヘビも、クマやウサギや、ネズミやトカゲも、アイノマの体にすりより、泣きわめくアングルボダをやりすごそうと、必死に息をひそめていました。
「あーあっ、あーあっ」
 しまいに、アングルボダの叫びは、子供のようなすすり泣きに変わりました。彼女は焼けただれた大陸の真ん中に立ち尽くし、天を向いて泣いていました。涙は青銅の湯のようにぼたぼたと流れ落ち、彼女自身の身体をまで痛めて、流れ続けました。彼女には、もうどうすればいいかわからないのです。自分ほどの知恵と力の持ち主でも、どうしようもできないことがあることを、彼女はもはや知らざるを得なかったのです。

 やがて、敗北感とあきらめは、甘美なヴェールのように彼女の胸をおおいました。彼女は泣きやみ、ついには寝そべって、死んだように動かなくなりました。
 そうして、刹那、大陸がよどんだ暗闇と静けさに、覆われた時でした。
 ふと、アングルボダの耳に、かすかな声が届きました。
「竜の母さま、竜の母さま、きいてください、わたしがばかです。ばかな生き物です」
 とたんに、アングルボダは、きらりと目をあけました。見ると、すぐ目の前に、毛皮の焼け焦げた、一羽のめすのうさぎが、よろよろと立っているではありませんか。
「わたしには、二羽のむすこがありました。でも、みんな、死なせて、しまいました。もう、生きていても、わたし、何の役にもたちません。一羽でも、生きていたら、どんなにか、つらくても、やっていけるのに……。みんな死んでしまった。わたしの子、みんな死んでしまった……。竜の母さま、わたしが、ばかな生き物です……」
 うさぎは目やにのたまったみじめったらしい顔で、アングルボダを見上げ、ふらふらと彼女の口元に寄ってきました。引き裂かれた耳は垂れ下がり、泣き疲れて魂がからっぽになったような虚ろな目でした。傷だらけの体から、砂のように生気が逃げて、息をしているのさえ重く、耐えられないような様子でした。
 しかしアングルボダには、魂を打ちのめされたうさぎを思いやる時間も気持ちもありませんでした。彼女はうさぎの言った言葉の意味を理解するや否や嵐のような動作でそれをつかみとり、悲鳴もあげさせぬうちに、アイノマの口の中にほうり込んだのです。
 湖のまわりには、多くの生き物たちといっしょに、アイノマの兄弟たちも集まっていました。日に日に小さくなっていく妹の息の音と、狂ってゆく母の姿に、兄弟たちもまた深い悲しみにしずんでいました。
 母が、いきなり妹との口を開かせてほうり込んだものが、何なのか、問うこともできぬうちに、変化は現れました。
 アイノマの体が小刻みに震えだし、不意に首がびくりと動いたかと思うと、全身をおおっていた灰色の皮が、見る間にぼろぼろに乾いていくのです。
 そこにいたものは、みな息を飲んで見つめました。
 やがて、指先から、尾から、体中から、砂が流れ落ちるように乾いた古い皮がほろほろ落ちていきました。山火事の後のひこばえのように、死んだ皮膚の下から、次々と新しい瑠璃のうろこが現れました。その様子は、まるで、灰色の雲が払われて、澄んだ満天の星が見えてくる雨の後の夜空のようでした。やがて、みずみずと潤った葉を茂らせる若木のように、美しいうろこがアイノマの全身を覆いました。ひび割れていた爪もただれていた舌も今は癒され、生き生きとした血流が早春の小川のように、体内で歌い始め、彼女の身体は見る間に生気に輝きました。アイノマは深い息を二度、三度繰り返し、うっすらと目を開けました。
 アングルボダは驚き、喜びの声をあげました。まわりの兄弟たちや生き物たちも、思わず歓声をあげました。
「おおアイノマ、治ったんだね!」

(つづく)




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