さのみやは春の深山の花をみむ早すみのぼれ雲の上の月
後醍醐天皇
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後醍醐天皇は悲劇の天皇である。人生をかけて日本のために働いたのに、人間の裏切りにあい、都を追われたあげく、怨霊のような存在に落とされた。建武の新政は失政ではない。後世の謀略によってだいぶゆがめられているのだ。
彼は武家政権を倒し、君主の徳による政治体制を打ち立てようとしていたのである。北辰制の原型といっていいだろう。だがそのような彼の高い理想など理解されるはずがない。彼は霊界的にも現世的にも妨害されまくった。それでも根性で幕府を倒したが、それまでだった。
いたずらに馬鹿をやる馬鹿が、なりきりの馬鹿でやった反逆が、後醍醐天皇の大きな夢を崩したのである。
後醍醐天皇の霊は今も吉野にあり、天皇家の霊廟には加えられていない。だが今の天皇家の隆盛は、決して後醍醐天皇の徳と無関係ではない。あの天使と血筋が同じだということに、表向きなっていることが、人民の霊に影響するからだ。ゆえに、天皇家は、いつまでも後醍醐を無視していては、痛いことになるのである。
昭和天皇は徳高い人間であったが、今上天皇はそうではない。小さな芸をするようなことがせいぜいの小さな人間の霊魂だ。それが激しい霊的ずるをして、昭和天皇の長男として生まれてきたのである。こんなことは馬鹿というものではない。
昭和陛下には長男は生まれるはずではなかったのだ。彼の使命は、皇室を閉めることだったからである。ゆえに今上天皇はもう天皇ではない。彼を、この日本の国運と関連付けてはならない。そんなことをすれば国が危うくなる。
後醍醐天皇を廃した天皇家は、廃されねばならない。実にこれは、業というより、最初からあるはずのないものを、元に戻すというものなのである。
ないはずの、あほうのような血筋が国の中心に流れていたから、日本の国はここまで間違ったのだ。
国の中心となり、国運を動かしていく、北辰の霊魂は、修行を高く積んだ大きな徳をもつ人格でなくてはならない。豊かで贅沢で安楽な暮らしが欲しいだけの馬鹿になってもらっては迷惑なのである。
これからも、このような古い血筋を大事にしていては、馬鹿がずるをやってそこに生まれてくる可能性がある。ゆえに血筋に頼る北辰制はやらないほうがよい。
霊魂を見る目が必要だ。愛の深さを見抜く感性が必要だ。
人格の段階が進んだ人類は、かなり容易に、後醍醐天皇の再来を見抜くことができるだろう。