家にある歴代の眼鏡をすべて壊してしまい、とうとう眼鏡店へ行くことにした。
もう限界を半年以上超えていたのだが、なにかと忙しくて面倒くさがり、延ばし延ばしにしていた。
眼鏡を作るって意外と時間がかかる。
就職して以来、仕事の際は基本的に縁なしで通してきた僕は今回もそれと、老眼用のフルフレームの計二本をと考えていた。
ただ、お使いの方はお分かりだと思うが、縁なしは強度的に劣っていて、そのため定期的なメンテナンスが必要だ。
店に入ると、商品棚の一番手前に置かれた、レイバンのクラブマスターが目に入った(レンズ上部はセル枠があり、他のレンズ周りはメタルリムで覆われているフレーム)。
大学時代に掛けていた時期があり、久しぶりにこれにしようかと内心グラグラ来た。
ところが、いざ掛けて鏡に映すと、どう見ても映画「フォーリング・ダウン」のマイケル・ダグラスばりの「かなり文句のあるオッサン」で、そそくさと外してしまった(あれはSHURON シュロンの商品だそうだが)。
おかしいなあ。
結局、無難に縁なしを作って店を出たのだが、車を発進させてからふと思った。
この年にもなって、いまさら他人からどう見えようと、関係ないでしょう。
ドレスコードさえ守っていれば。
だいたい、もともと自分はアングリー・ヤングマンだったのだから、文句がありそうに見えて当然だろう、と。
1997年、火山の噴火によって壊滅的な被害を蒙ったカリブ海に浮かぶイギリス領モントセラト島のために、かつて同島にスタジオを所有していたジョージ・マーティン(プロデューサー)の呼びかけでチャリティ・コンサートが開かれた。
マーティンのそのスタジオでレコーディングを行なった著名アーティストが大挙出演する中、コンサートのハイライトは、彼が指揮するフル・オーケストラとポール・マッカートニーによって再現された、「ゴールデン・スランバー」~「キャリー・ザット・ウエイト」~「ジ・エンド」のビートルズ・メドレーだった。
「キャリー」はゴスペル・アレンジが施され、「ジ・エンド」の3人によるギター・ソロはポール、マーク・ノップラー、エリック・クラプトンが担当している。
コンサートより前、1989年のワールドツアーから、ポールはこのメドレーを演奏していたが、やはりそれとは一味違う。当人も、歌い終えたあと誇らしげだ。
娘が3つ年上の息子と同じ大学に進学することになった。
しかも、同じ学部の同じ学科へ。
アパートは本人の希望で、おにいちゃんの住む建物から二棟はさんだ三軒隣りの物件にした。
息子を手招いて、いいのか?とこっそり尋ねたら、大丈夫だよ、と答えた。
この話を、銀行の女性支店長さんに話したところ、爆笑されたあと、同じ年頃の子を持つ親としては一番安心ですね、と羨ましがられた。
確かに、現地に立ってみると、まだ奇異な感覚は残っているものの、3年見慣れた息子のアパートがすぐ近くに見えるのは、とても安心だ。
これまで何度も書いたが、仕事にかまけて子育てを全くしなかった。
申し訳ない限りである。
手を掛けないから口出しもしなかった。
しつけもせず、叱ったこともない。
そんな中で、たった一つだけ繰り返し話したのは、二人しかいない兄妹なのだから仲良くしなさい、だった。
こんな親の願いを、子供たちは見事に叶えてくれた。
本当にありがとう。
2008年 佼成出版社刊
作者と挿絵画家は兄妹なのだそう。
しかも、同じ大学を出ているとのこと。
まだ毎日に時間の余裕があったころ、靴磨きを特技にしていた。
お気に入りの靴を色別に何足ずつか、広げた新聞紙の上に並べ、サクサクと磨いて行く。
この間は見事に何も考えない。考えている暇がない。
靴の列が端から輝き出し、それで終わり。
気分転換かもしれないし、単に日常で必要な作業なのかもしれない。
きっかけは20代前半に、同僚から義理チョコの代わりにいただいた缶入りのシューシャインキットだった。
今考えても、とてもしゃれた流行りである。
とはいえ、受け取った当初は、ちゃんと靴を磨けというメッセージか?とかなり焦ったが。
本格的に磨くようになったのはそれからだ。
駅にいる靴磨きに立ち寄り、プロの技を観察した。
それぞれ手順が違っていたり、長年の経験から必要にかられて自作した道具を持っていたりするのがとにかく面白かった。
最近は出がけにほこりを払い、ウエスでクリームをさっと塗るだけになってしまっているが、これでは靴も泣いてるな、と内心申し訳なく思っている。
この週末にでも、久しぶりに鈍った腕前を試してみようか。
「ストレスで口が開かなくなっていた僕が、たまたま入ったリラクゼーションのお店に、そのひとはいた。
お店と言っても、山深い日帰り温泉の休憩室の一角に、古びたついたてを二重にしてこしらえた怪しげな外観だったが、そんなものに頼る気になったほど、症状は悪かった。
入ってみると、意外にも施術者は若い女性だった。
施術台の簡易ベッドが二つ、くっつきそうにして並んでいる。
土日の人出がある時は二人で出勤しているが、今日はたまたま一人だと言う。
体を揉みほぐしたあとに顔をマッサージしてもらえないか、と思い切って尋ねると、お金をいただいて施術したことはないけれど、大丈夫です、できます、との答えが返って来た。
耳の脇の、あごの筋肉を円を描くようにマッサージしてもらうと、その日は格段に症状が改善された。
帰りは運転しながら久しぶりにコッペパンをほおばった。
それからというもの、仕事の合間を縫って二週間に一度、予約の電話を入れた。
うつぶせで着衣のままだったが、彼女の施術を受けると、なんだか自分の骨格や内臓の位置が頭に浮かぶような気がした。
そう話すと、彼女はお褒めに預かり光栄です、と笑った。
私なりに、良くなれ良くなれ、と念じながら揉みほぐしているので。
しばらくすると、売り上げの減少からベッドが一つになり、もともと狭かったスペースはさらに縮小された。
こんなところでも、床面積で家賃が決まっているのだそうだ。
ここがなくなると困るなあ。
僕が本音を漏らすと、私はこの仕事が好きなので、どこかで必ず施術していますから、と真顔で答えた。
そうこうしているうちに彼女は結婚、妊娠・出産のため産休に入った。
その間、店は同じ仕事をしていた彼女の従妹が守った。
それからも僕は店に通い続けたのだが、やがて彼女は第二子を授かり、それを機に店を畳むことになった。
最初の施術から12年が過ぎていた。
井浦さんは本当にいいお客様でした、私がここまで続けられたのは、あなたのおかげです。
僕のこめかみを揉みながら、そう言って彼女は大粒の涙をタオルの上に落とした。」