戦後、数年たった東京では「住宅難」が起こりました。住民の多くはひどい住宅に住んでいました。長屋や安アパートなぞは一部屋しかありませんでしたから、「寝食分離」なんて不可能でした。
一部屋というのは6畳です。入口の半畳の土間に流しがあり、もう半畳は押入れ。合計7畳。トイレは共同のぼっとん便所でした。
当時から2DK という用語があり、それは庶民のあこがれの的でした。ところがこれが狭いのです。「2」は2部屋のことですが、6畳と4畳半。DK (ダイニングキッチン)なんていっても6畳。あと、バストイレ付きだけは自慢できました。(東京では風呂は銭湯を使うのが一般的でした)。
4階建ての2DK 集合住宅が雨後のタケノコのように建ちました。3階以上でぼっとん便所はあり得ませんから、やっと水洗トイレが普及しました。まだ納豆売りの少年がいたころの話です。所得格差が大きく、2DK に住めた住人のさらに上には、先日述べた華僑の康くんちのような西洋館があって、そこからはピアノの音が聞こえてきました。(戦前からです)。
戦後、2DK の連中は戦前の西洋館の深窓からのピアノの音が悔しくて、自分たちもこぞって2DK にアップライトピアノを入れました。そして、子供にピアノを習わせました。これが東京のピアノブームです。狭い2DK がさらに狭くなりました。そのころ、日本人の8割は農村で農業をしており、農村ではピアノはあっても学校だけでした。
ピアノを買うのは、日本全体から見れば都市住民の一部だけですから、ヤマハ、カワイは良いピアノを出荷できました。その後、都市への人口流入によって、ピアノの需要はうなぎ登りとなって、メーカーはピアノの木材を乾燥させる暇もなく、ピアノの質が10年間で急速に低下しました。(その質の低下は今聴いてもわかります。都市のピアノの音には戦前の上流階級への怨念がこもっています)。
現在、同じことが中国や東南アジアで起こっています。中古ピアノの需要は大きく、上のCMの会社は成功しました。粗製乱造のピアノがたくさん残っていますから・・。もっとも、上の会社は最初、輸出対象がオーストラリアだったので、中国その他に輸出しているかどうかは知りません。
中国では新品の需要も大きいですから、少なくともヤマハはウハウハなことでしょう。
(おことわりしておきますが、私はピアノが弾けないし、家にピアノもありませんでした)。
※私の俳句(秋)
菊なますばかり出てくるはしご酒