太陽はまぶしくて凝視できないが、月は見ることができる。幼少時どこに行くにも帰るにも目黒川沿いを通った。東京の道路はまだ未舗装で高いビルもなかった。家々はほとんどが木造だった。
満月の着いてくるなり川沿ひに
歩を止めると月も止まった。「どうして?」と私。「月はすごく遠くにあるからだよ」と父。私には意味がわからなかった。
月の出は殊に不思議だった。登りたての月は異様に大きく、まただいだい色を帯びていた。月にせよ太陽にせよ、地平線に近いとなぜ巨大に見えるのか、ほんとうのところはちゃんと分かっていないらしい。
汚れたる巨漢のごとし月のぼる
父は「月でウサギが餅をついているように見えるだろう?」。私はよく見たが、そのようには見えなかった。
満月に蟹を見るとぞ異国では
節分には家々から「鬼は外・・」の声が聞こえた。今はビル街となって往時の声はまったくない。父は「あそこに鬼がいる」と言ったが、私にはどうしても見えなかった。豆を撒いた。もったいないから後で食べるために室内に撒いた。
節分や大小の声家々に
東京の私の住むところでは月見の風習はなかった。戦後10年、まだそれだけのゆとりがなかったのかもしれない。絵本で見るススキと饅頭の月見にあこがれた。とくに饅頭に・・。
月めでるための芒を切りにゆく
カレーライスがごちそうだっだとは、いつぞや書いた。不安が多い幼少期でもカレーで一息ついた。(生まれてから初めての記憶は不安に彩られている、とは恩師、中井久夫氏の言葉)。
貧しくもカレーを囲む良夜かな
近所の子らとよく遊んだ。当時は魚屋のケンちゃんがガキ大将で、その公正な采配はのちのちまで勉強になった。彼は子どもたちの尊敬を集めた。
遊びほうけしその夜の無月かな
雨降るや名月のぞむべくもなく
それから10余年後、アポロ計画の成功によって月の神秘性は激減した。
(「足成」より引用。NGe氏撮影)。
満月の着いてくるなり川沿ひに
歩を止めると月も止まった。「どうして?」と私。「月はすごく遠くにあるからだよ」と父。私には意味がわからなかった。
月の出は殊に不思議だった。登りたての月は異様に大きく、まただいだい色を帯びていた。月にせよ太陽にせよ、地平線に近いとなぜ巨大に見えるのか、ほんとうのところはちゃんと分かっていないらしい。
汚れたる巨漢のごとし月のぼる
父は「月でウサギが餅をついているように見えるだろう?」。私はよく見たが、そのようには見えなかった。
満月に蟹を見るとぞ異国では
節分には家々から「鬼は外・・」の声が聞こえた。今はビル街となって往時の声はまったくない。父は「あそこに鬼がいる」と言ったが、私にはどうしても見えなかった。豆を撒いた。もったいないから後で食べるために室内に撒いた。
節分や大小の声家々に
東京の私の住むところでは月見の風習はなかった。戦後10年、まだそれだけのゆとりがなかったのかもしれない。絵本で見るススキと饅頭の月見にあこがれた。とくに饅頭に・・。
月めでるための芒を切りにゆく
カレーライスがごちそうだっだとは、いつぞや書いた。不安が多い幼少期でもカレーで一息ついた。(生まれてから初めての記憶は不安に彩られている、とは恩師、中井久夫氏の言葉)。
貧しくもカレーを囲む良夜かな
近所の子らとよく遊んだ。当時は魚屋のケンちゃんがガキ大将で、その公正な采配はのちのちまで勉強になった。彼は子どもたちの尊敬を集めた。
遊びほうけしその夜の無月かな
雨降るや名月のぞむべくもなく
それから10余年後、アポロ計画の成功によって月の神秘性は激減した。
(「足成」より引用。NGe氏撮影)。
(1)
東京の中学、高校時代、中里先生と性格のよく似た友人がいた。彼はときどき、月の話を持ち出して、その神秘性を話題にして周囲を楽しませていた。
夕闇せまる帰宅時、最寄りの電停で、彼が、「今、月が出ているかどうか判断できるかどうか」唐突に、回りの学友たちに質問をした。
私は一計を案じた。月の出の夕刻の時間帯に、電車通りの街の明かりの中で、高度の低い月はそうは目立たないだろう。だから月は意識の表層には出てきていないだろう。たぶん彼が唐突に質問したのは、月をスカイライン越しに目撃したからだろう。「出ている」と答えたら、「ご名答」と答えが返ってきた。
(2)
さて、上りたての月はたしかに目玉焼きのように大きい。色もヨード卵のように濃い。山の端であれ、山小屋の後ろであれ、立ち上る時にはたしかに大きい。サウンドオブミュージックの月もものすごく大きかった。
(3)
ところで、写真は遠近法の原理に従って、映像を「客観的」に記録する。地平線上の月も、仰角30度の月も、距離が同じなら同じ大きさにとらえる。
ある時、時間帯を数回にわけて、仰角の異なる月の画像を撮ってみた。今ならたちどころに画像を見られるが、昔の話だから、写真屋に現像に出して数日かかった。
結果は、やはり期待通りと言うか、期待に反してと言うか、月は冷たく小さく写っていた。それは仰角30度でも90度でも変わりがなかった。
(4)
とすると、望遠レンズの役割を果たすものが、人間の生理の側にあることになる。視覚情報はまず網膜に写される。フィルム面と同じ客観情報の記録。デジタルカメラで言えば、受光素子ということになる。
網膜像そのものを我々は意識して観ているわけではない。情報を脳で処理してから、視覚映像として後頭葉の視覚野にマッピングされ、感覚として意識化される。
この脳が曲者なのだ。ある人の説によれば、山の端とか、山小屋の背景に月がある場合、それらの事物よりも、月は圧倒的に大きくなければならない。その大きさは山や山小屋どころではないのである。かと言って脳は網膜像を勝手に野放図にデフォルメしたりはしない。そこで脳は遠近法を極端に破らない範囲で、背景の月を少しばかり望遠レンズ画像にしてしまうのである。
この問題には、定説はまだないが、面白い考え方だと思った。セザンヌとルノワールが、ヴィクトール山の風景画を描いているが、ある人に言わせると、セザンヌは脳処理段階で、望遠画像的に修正し、ルノワールは網膜画像的にすこし遠ざかって描いていると述べている。脳の生理については全く専門外なので、中里先生の言及にお任せしたい。
シナモン:twitter:https://twitter.com/yamkam1020
太陽の直径の角度は日の出のときと天頂にいるときと、じつは違いがないんでしょうね。
それでも、やはり地平線に近いと大きく見えてしまいます。目の錯覚でしょうか?
それについて大まじめに考察した本が講談社のブルーバックスにあります。