えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

イーダのうなじ

2011年05月28日 | 雑記
部屋の最後、集中がつきたあたりで行き過ぎるか、彫刻の部屋から入ってくるとまずそのまま右に曲がってしまい足をとどめることがむずかしい一枚が国立西洋美術館にある。ヴィルヘルム・ハンマースホイの「ピアノを弾くイーダ」の一枚だ。

静謐と言うことばに似合う白を持つ画家だ。うす曇の陽射しのような灰色の光と、それを受ける白い壁、白いドア。つやのある石か曇りガラスを敷いたような、ぼんやりとした光沢のある床はテーブルの脚の影をほのかにふちどりながらそれを支えている。曇り空のような室内の手前、鉄色の皿を載せた丸い木のテーブルからもう数歩歩いた先の開かれた白いドアの奥で、淡い紺色の服の女がオリーブ色の木でできた何かに向かい合っている。紺色の服の襟からのびる首の白を際立たせて茶色の髪がくたびれたようにわずかにはねている。語りかけられているのか、語ろうとして途中で止まる会話のような、ひたすらに静かな空間なのだけれども、見る心はなぜか複雑な綾を感じ取り、落ち着かなくなる。冷たそうにみえるけれども、触れた指先の皮膚に包まれた肉だけがじわりとあたたまるような、距離の難しい絵だ。

この絵は通路の突き当たりにかけられている。
いろいろと派手でかつ柔らかく、当時の斬新さを集めきった、筆先に技巧と力ののった絵画のなかを精一杯すり抜けた、最後の部屋にいたる通路の脇にかけられている。次の部屋に向かう人はまず間違いなく目にしているはずなのだけれど、四角い部屋を丸くはくような足取りで次の部屋へとするする進んでしまう。隣の壁に飾られた絵たちからかけ離れた白の佇みはめだたない。次の絵、という惰性で見られることはいやみたいだ。そのくせ、廊下の途中のような長い壁に飾られるとどうしてよいかまごついてしまう。部屋の中であって、横に広がる風景をもたないからか、脇を固める絵なしに突き当たりにいるほうが似合っているような気もする。

まっすぐに絵に向かう。十歩ほど近づくと絵の両脇から差し込む光が、部屋の広さを感じさせてくれる。一歩ごとに部屋へ近づく。大部屋のように開け放たれたふすまのはしから床の間を覗くように扉の敷居をまたいでゆく。テーブルの部屋に入るのは、絵から3歩。画家の妻イーダがいる部屋を画家といっしょに望む。画家でも入れない奥の部屋で、イーダはピアノを弾いている。中心から左上にずれたうなじがそこだけ霜のように白い。ドアも壁も、天井も白いのだが光は吸い込まれたようにうなじだけを白く染めているのだ。

隣に、イーダの兄イルステズの描く彼女の肖像がある。わずかに八の字に下がった眉の下の目はくるっとしているし、上向き加減の鼻はそばかすが似合い、いつまでも少女のような笑顔が似合う女性だと思う。だが口元は笑顔を押さえるように閉じられている。それでも塗りこめられた肌の底にあたたかな笑顔の色が見え隠れする。兄の筆だからかも知れない。その温度が、ハンマースホイの描くうなじには限りなく少ない。むしろ部屋そのものに薄められて、広がっているのだ。イーダの生活する部屋の空間や空気と言ったものに画家の味わう気配が閉じ込められている。
コメント
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