えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

うつわ・揃い

2011年12月25日 | 雑記
 物心ついたときから二種類の漆のお椀をつかっている。ひとつは表面の円弧を切り落として、角ばった面にうっすらと木地の見える浅いお椀、もう一つはつるりとした、楕円をまっぷたつにした形の深いお椀、どちらも汁椀として食卓に並ぶ。そしてどちらも外側は黒、内側は朱に塗られている。陶器の飯椀がつぎつぎと欠け、割れ、食器棚から消えてゆくのに対して、彼らは黙って食器棚の中に居続けている。ということに今気が付いた。

 朝起きて、あたたかいものを口にするとき彼らの朱色がだんだんとものを食べるにつれて明らかになる。持ち上げて口にして傾けるたびに目へ朱色を刷り込みつつ淡々と役目を果たすと、ささっと食洗機やスポンジで汚れを落としておとなしく食器棚に戻る。今更ながらに、ほんとうに今更ながらに、朱墨のように素直な朱の器物がそばにいることを思う。

 池袋西武で21日からはじまった「うるし・おわん・うつわ展」は、それぞれキュウ漆と蒔絵で人間国宝に認定された小森邦衛と室瀬和美、そしてその弟子たちの作品を展示している。気に入った作品があれば購入もできる。30代~20代の若い人たちの手が作るうつわはどれも作家ごとに少しずつ気を入れたところが異なっていておもしろい。すでに買い手がついているものも多い。でも、数個を一度に買ってゆく人はほとんどいないのだという。あれっと思う。椀物、お箸、片口と杯、ひとつずつが別々の人に買われてゆく。不思議な気持ちになる。けれどそれは、私がまだ家族と暮らしていて、同じお椀で一緒に食事をとっているからこそ感じる違和感だった。

 それは日常で使うためのものの形を取っている。でもひとりぼっちで使われることを余儀なくされるうつわたちがここにはあまりにも多かった。技芸に比して、仕方のないことなのかもしれない。値段を一目見ればすぐにでもわかることだ。漆はその性質上、手間をかけなければならない。漆を精製するところまで遡ると作り手が減っている。それは如実に数値となって反映されざるを得ない。でも、それでも、揃いの姿で誇らしげに佇むものたちが、とても寂しい影をひいているように見えて仕方がない。

:付記というか言い足りないことの雑記
 芸術品と日用品をごっちゃにするなと言われそうですし漆という技法が日常に対して手の届きづらいものになってしまった現在は一つを愛でるという使い方のほうが個の台頭に併せて正しいのかもしれませんパンフレットにも「MY漆器を手に入れ」うんたらと書かれており私も専用のぐい飲みを買ったりしています。
 ただ物品、特に食器を見る視点のひとつとして家族とか人が揃うことが私の中に根強いだけなのです。
コメント
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