何をしに遠くへ行くのだと訊ねられた時の答えは相手に応じて変えている。そう親しくもない人には「遊びに」と応じ、ついでにお勧めの店や場所を教えてもらう。親しい人には「会いたい人に会いに」と伝える。納得してもらえることもあればしてもらえないこともある。相手にも私にも与えられた時間は平等でスタート地点が異なるだけだ。その日一日の時間の割り当てを私の為に少し割いてもらう。そのためには何かしらの代償を払うことは礼儀として当然ではないだろうか。実際それを売り物にするしょうばいも紀元前から存在している。私はその場所に取っては一過性のお客様なので、喋ってもよい。好きなことを適度に(これが難しい)話してもよい。ただし口に出して声に乗せて喋るので取り返しはきかない。人によっては打ち消せない。そこまで疑り深い人とは向こうの方から離れていくので遭遇したことは幸いにない。家族以外の人に会う時に抜ける息は年年増えるばかりだ。どれだけ身体の中に呼吸をため込んでいたのかと呆れるほど外へ出た私は喋る。どもりながら喋る。喋ることが無くなっても相手の時間をねだるほど喋りたがる。今日も忙しい相手を捕まえて三〇分もらった。いただいた。
メールやSNSなど文章を使うほうが楽ではあるのだが、書けば書くほど身体の中に余計な物が溜まっていく感覚を覚えることもある。それは相手に対してではなく、自分自身で文章を推敲するために繰り返している最中自分に向けられる視点が放り投げる夾雑物だ。伝えるための文章は伝わらなければならない。伝わりたいことを絞って伝わるように書く。当然のように求められる能力だが難しいと思う。伝えたいことと伝えなければならないことの分量に生じる差を自覚するには慣れと賢さと、それから親切な相手が必要だ。
今のところまだそれを指摘してくれる相手はいる。できる限り無くしたくないと思う。忘れられないように顔を見せに、どう見られるかは構わずに会いに行くそれはおそらくストーカーの心理に近いのかもしれない。昔はもう少しマシな言葉があったはずだが、今は古びてしまった。
メールやSNSなど文章を使うほうが楽ではあるのだが、書けば書くほど身体の中に余計な物が溜まっていく感覚を覚えることもある。それは相手に対してではなく、自分自身で文章を推敲するために繰り返している最中自分に向けられる視点が放り投げる夾雑物だ。伝えるための文章は伝わらなければならない。伝わりたいことを絞って伝わるように書く。当然のように求められる能力だが難しいと思う。伝えたいことと伝えなければならないことの分量に生じる差を自覚するには慣れと賢さと、それから親切な相手が必要だ。
今のところまだそれを指摘してくれる相手はいる。できる限り無くしたくないと思う。忘れられないように顔を見せに、どう見られるかは構わずに会いに行くそれはおそらくストーカーの心理に近いのかもしれない。昔はもう少しマシな言葉があったはずだが、今は古びてしまった。
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