多和田葉子の『地球にちりばめられて』は、日本がなくなった世界に取り残された日本語を集める物語だ。国が無くなってしまったので日本人という呼び方もなくなり、中国人には近いがニュアンスのようなものが違う黄色人種のHiruko.Jは、本の外側にいる読者と同じ意味を共有できる日本語を喋ることが出来る女性として珍しがられている。日本語同士の会話の時間を持つために彼女はもう一人の日本人を探して欧州を彷徨う。道中ではかつて日本という国から取り込まれた文化の残滓を愛する人々がなし崩しに周りに集まって、連鎖のように彼女の旅を助けてもう一人の日本人のもとへ彼女を連れてゆく。だがようやく対面したSusanooと自称していた日本人の男は、声を無くしていた。
彼が日本語を失っていないことを示すため、彼の独白の章はきちんと設けられている。船の勉強のためにドイツへ留学していたSusanooは留学先で日本料理の店の経営に携わり、料理に夢中になっているうちに故郷を失うも意に介せず、ひとめぼれした女を追いかけて妻子を棄てフランスのアルルに腰を落ち着けた。喋らない生活を続けているうちにSusanooは声を失う。一方のHirukoはスカンジナビアに順応した彼女独自の汎用言語「パンスカ」を作り上げ、文字通りの「彼女の言葉」で己の心を的確に発声する手段を手に入れる。Hirukoは雄弁に各国の言語を使い分け、Susanooは沈黙の裡に必要な言語を理解する。二人は互いの裡に日本語があることを理解するが、対話には至らない。
緊急事態宣言が発出されてから家の中に閉じこもり、言葉を口に出さないでいると、Susanooのように言葉が肉体に沈殿しているような感覚を覚える。それは自分の意見を体の外に言葉で出す必要がないということで、伝える相手がいようといまいと関係はない。互いに家にこもりきって一応は、GW明けまでの自粛の強制だが、それが明けたときの対話はきっとぎこちないだろう。Hirukoから呼びかけられてSusanooは孤立を意識する。言葉は胸の中でうずいている。けれども外に出ることはない。旅仲間のデンマーク人の言語学者クヌートは軽々とSusanooを「失声症」の病気に放り込み、それを治療しようと新たな旅を提案したところで小説は終わる。
対比の関係を積極的に使い、どの登場人物も結びつく相手がいない小説の目的は簡潔で、人間関係のもつれではなく彼らを表現する文章に使われている文字こそ注目すべきだと語っている。たとえばクヌートに片思いする女性的な男性アカッシュと、クヌートの母から奨学金の支援を受けているナヌークに片思いする男性的な女性ノラ、といった組み合わせ。人となりは全員分独白が用意されているので理解に手間はない。常に誰かが誰かを見つめている。誰かが誰かを連れて行く。いかめしい議論もやかましい喧嘩も起こらず、彼らは日本語に乗って小説の終わりまで運ばれてゆく。大きな喪失が冒頭に示されながら、喪失感という寂しさは一切ない。対話で結びつく彼らを読む読者の孤立を深めながら、彼らは会話で自分たちを確かめてゆくのだ。
彼が日本語を失っていないことを示すため、彼の独白の章はきちんと設けられている。船の勉強のためにドイツへ留学していたSusanooは留学先で日本料理の店の経営に携わり、料理に夢中になっているうちに故郷を失うも意に介せず、ひとめぼれした女を追いかけて妻子を棄てフランスのアルルに腰を落ち着けた。喋らない生活を続けているうちにSusanooは声を失う。一方のHirukoはスカンジナビアに順応した彼女独自の汎用言語「パンスカ」を作り上げ、文字通りの「彼女の言葉」で己の心を的確に発声する手段を手に入れる。Hirukoは雄弁に各国の言語を使い分け、Susanooは沈黙の裡に必要な言語を理解する。二人は互いの裡に日本語があることを理解するが、対話には至らない。
緊急事態宣言が発出されてから家の中に閉じこもり、言葉を口に出さないでいると、Susanooのように言葉が肉体に沈殿しているような感覚を覚える。それは自分の意見を体の外に言葉で出す必要がないということで、伝える相手がいようといまいと関係はない。互いに家にこもりきって一応は、GW明けまでの自粛の強制だが、それが明けたときの対話はきっとぎこちないだろう。Hirukoから呼びかけられてSusanooは孤立を意識する。言葉は胸の中でうずいている。けれども外に出ることはない。旅仲間のデンマーク人の言語学者クヌートは軽々とSusanooを「失声症」の病気に放り込み、それを治療しようと新たな旅を提案したところで小説は終わる。
対比の関係を積極的に使い、どの登場人物も結びつく相手がいない小説の目的は簡潔で、人間関係のもつれではなく彼らを表現する文章に使われている文字こそ注目すべきだと語っている。たとえばクヌートに片思いする女性的な男性アカッシュと、クヌートの母から奨学金の支援を受けているナヌークに片思いする男性的な女性ノラ、といった組み合わせ。人となりは全員分独白が用意されているので理解に手間はない。常に誰かが誰かを見つめている。誰かが誰かを連れて行く。いかめしい議論もやかましい喧嘩も起こらず、彼らは日本語に乗って小説の終わりまで運ばれてゆく。大きな喪失が冒頭に示されながら、喪失感という寂しさは一切ない。対話で結びつく彼らを読む読者の孤立を深めながら、彼らは会話で自分たちを確かめてゆくのだ。