えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

:読書感『ギフテッド』鈴木涼美 文藝春秋 二〇二二年七月

2022年07月09日 | コラム
 ずっと張り詰めている。張り詰めた空間の中で細い弦が跳ねて立てる鋭い音へ耳を澄ませるように、読んでいかなければならない。張り詰めていながらどっしりと安定している。疳のきつさや神経質に飛びつかないように律している。体温はきっと低い。低いけれども触れると皮の下の血管の脈動を感じる。『ギフテッド』が一歩も引かずに歩かせる東京の新宿の地面は固い。だから主人公がヒールのある靴で歩くと音が立つ。その音は不規則な形を描いて規則正しく読者を先へ運んでいく。

 たとえば、鈴木涼美の水商売の経験があけすけに書かれているとか、男を挟んだ女同士の切った張ったを想像するとか、とにかく女のコを期待するだろう読者が勝手に登った梯子はきれいに外されて、かといって女が誰でも持っているそれなりの濃密さや引力のある母と娘という関係性の、とにかく泥沼を探そうとしても整頓されたことばの空間があるばかりだ。死んだ人間である「エリ」を除いて登場人物は名前で語られることはなく、主人公の二十代後半の女性の足取りに合わせて場面を演じてゆく。名前がない代わりに物腰や振る舞いがその人物を確実に規定する。観察眼が現実からもぎ取った新鮮な風景が息遣いの生暖かさを綺麗に映し出す。

「コンビニで氷結と淡麗と水を持てるだけ買ってから行った」
「金持ちなだけではなく幸福なことがわかる服を着ていた。」
「客の顔にお金以外のものを映したことはない。」

 こつんこつんと歯で氷を噛むようなことばの切れが味わい深い。施錠した自宅に帰る一連の動作を儀式のように耳で感じている主人公の聞く音は反復されるごとに読者の中へ少しずつなにかを落としていくような感触を遺して続いていく。胃の病気で余命幾許もない母を看取るために仕事を辞め、乾いた唇にリップクリームを塗り込むほど行き届いた気遣いを惜しまない主人公の素っ気ない掴みどころのなさへ、しがらみの深さが裏拍としてしがみついている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする