えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・読書感『昏乱』 トーマス・ベルンハルト 池田信雄訳 二〇二一年十一月 河出書房新社

2022年12月10日 | コラム
 こんなに石を噛むような、それでいて掴みどころの無い感触の小説を現代に書く人がいるのか、と思いながらページを捲ったあとがきには本作の初出が一九六七年と書かれていて納得した。トーマス・ベルンハルトが築いた『昏乱』の頑固な迷路のような言葉の骨格は読者を選別する。頑強な骨格を更に渦潮のような引力が取り巻いている。「混乱」ではなく「昏乱」という造語に違わず、ドイツ山中と思われる田舎の辺村という小さな密閉空間の中で息を詰まらせる呆然とした視界の中で、人が自然に任せて死んでゆく。章題のない前半と、「侯爵」と題された後半に分かれているが、これは一日の物語だ。
 街の大学に通う「ぼく」は帰省して町医者の父の往診に散歩がてら付き合うこととなる。
「二十六日、父は早くも午前二時にある教師の往診のためザラへ向かったが、死に臨んでいたその教師が息を引き取るやすぐにそこを出て、年明け早々煮えたぎる熱湯を満たした豚処理用の桶に落ち、いまは病院から両親のもとに戻って数週目になる子供を診にヒュルベルクへ車を走らせた。」
 往診へ向かったその時間、別の宿屋では女将が酔っ払いに頭を殴られて打ちどころが悪く、生死を彷徨っていた。語り部の「ぼく」と父が支度を整えて玄関を出ようとすると宿屋の亭主が女将の往診を頼みにやってきていた。車の中で母の死について語りながら父は「校長夫人」と呼ぶ老女を訪問する。死の淵に差し掛かっている彼女が今も生きていることを確認すると、糖尿病の実業家と昼食を囲み歓談して製粉所へと足を伸ばす。長い時間ある場所にとどまっているはずなのにそれを感じさせないほど、流動的に薄暗い死を背景とした人間が静物画のように書かれていく。
「ぼくたちはこの上なく密にいっしょでいながら、みんなが完全にばらばらだ。
 人生全体が、いっしょになろうという闇雲な試み以外のなにものでもない。」
 母の死をきっかけに自殺衝動へ捕らわれるようになった妹と辺境から離れようとしない父を眺めながら「ぼく」は寄り添うように父に従って人を眺めて自分の言葉を残してゆく。だが最後に訪れた「侯爵」は思考の隙を彼に与えることなく、城壁を巡りながら滔々と日が暮れるまで語り続けて止まない。父と息子の関係であったり、雇人と主人であったり、妻と夫であったり、土地と自分であったりと、これまで「ぼく」が往診で目にした人々から感得した感情を代弁するかのように語るが、あくまでそれは侯爵の人生であり「ぼく」の現在でも未来でもない。ようやく侯爵の口が閉じて解放されたその晩の夜、まるでそれが自分の物語であるかのように「ぼく」が侯爵の言葉をノートに記すところで小説は終わる。
「昏乱」という言葉は至る所で影を落とす。妹から侯爵まで全ての人が自覚しながら掴みきれない何かのために心乱され、それを少しでも整理するために生身の医者の往診を必要としていく。医者の父の治療はカウンセリングのようだ。けれども父もまた「昏乱」の渦を旨に抱いていることは「ぼく」の耳目から伝えられる。二重の語りを通じて忍び寄る雪のような静けさは、狂気に沈みきるその時に見えるものなのかもしれない。
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