財津和夫さんが「私のいらない『心の旅』のいま」という新刊書(new publication)を出版した。財津さんがかねてから言っていたように、まえがき(はじめに)には「思えばこれまで~持つ必要のないものまでしょい込んでいたような気がします。『いらない』を捨てることでラクになれた。無理をしてがんばることも、周囲に気を遣うことも、責任をひとりで抱え込むこともやめました。わがままに生きていこうと決めたんです。」(本書抜粋)と、アマチュア時代を含めて40年以上にわたってオーナー(owner)として「チューリップ」を率いて自らの音楽と時代をきりひらいてきた財津和夫さんが65才を迎えてのこれからの「生き方」について、これまで「がんばって」きた反面鏡としての「わがまま」な生き方、わが身、心をスリムにする「いらない」哲学(slim philosophy)を述べている。
昨年から今年まで1年近くかけてチューリップ40年メモリアルコンサートを全国40か所で開催して、そのほとんどの大ホールをソールドアウトにしていまでもほぼオリジナルメンバー5人だけでの歌、演奏で高い音楽性、スキルを披露して聴衆を圧倒したチューリップを40年にわたって詞・曲、歌でその中心となって支えてきた財津和夫さんは類(たぐい)まれな「経営者」でもある。
音楽活動はまだまだ続ける中で、しかし65才といえば社会一般的には定年期でもある。本書はその転機の中での心のスリム哲学だ。
読み進むうちにというか、ついに最後まであれもいらない、これもいらない、あれはダメ、こんなことは必要ないの連続で、どんどん暗くなる一方の書である。
現代の若者の音楽についても、かねてから財津さんは「われわれがほとんどやってしまったので、ある意味気の毒な感じはする。」と言っていたが、「(若者のヒット音楽は)子どもに向かってしゃべりかけるような歌ばかり」(本書)で自分が考え、期待していたものとはまったく違っていると、自らの40年のフロンティア(frontier)な生き方による日本音楽(ポピュラー)の先駆的役割を果たした自らのフロンティアな活動に照らして厳しく批評している。
読み終わって感じたのは、現在の財津和夫さんの「いらない」ものが反面教師としての「若者への讃歌」であり、激励、期待であることがわかる。
最後の章『「答え」はいらない』では、「いらない」ものを捨てることによって第三幕の新しい幕開け、ときめきの予感がすると書いている。
歌いたい曲を好きなように歌うコンサートステージに、映画の脚本、監督にも興味を示している。そして最後に、自らが75才になるチューリップ50年コンサートツアーにも触れて、「怖いもの見たさ」でちょっとは興味があると締めくくっている。
ソロアーティストとしてならいざしらず、バンドとしてはどうでしょうか。その真意はさすがにはかりしれないものだった。
昨年から今年まで1年近くかけてチューリップ40年メモリアルコンサートを全国40か所で開催して、そのほとんどの大ホールをソールドアウトにしていまでもほぼオリジナルメンバー5人だけでの歌、演奏で高い音楽性、スキルを披露して聴衆を圧倒したチューリップを40年にわたって詞・曲、歌でその中心となって支えてきた財津和夫さんは類(たぐい)まれな「経営者」でもある。
音楽活動はまだまだ続ける中で、しかし65才といえば社会一般的には定年期でもある。本書はその転機の中での心のスリム哲学だ。
読み進むうちにというか、ついに最後まであれもいらない、これもいらない、あれはダメ、こんなことは必要ないの連続で、どんどん暗くなる一方の書である。
現代の若者の音楽についても、かねてから財津さんは「われわれがほとんどやってしまったので、ある意味気の毒な感じはする。」と言っていたが、「(若者のヒット音楽は)子どもに向かってしゃべりかけるような歌ばかり」(本書)で自分が考え、期待していたものとはまったく違っていると、自らの40年のフロンティア(frontier)な生き方による日本音楽(ポピュラー)の先駆的役割を果たした自らのフロンティアな活動に照らして厳しく批評している。
読み終わって感じたのは、現在の財津和夫さんの「いらない」ものが反面教師としての「若者への讃歌」であり、激励、期待であることがわかる。
最後の章『「答え」はいらない』では、「いらない」ものを捨てることによって第三幕の新しい幕開け、ときめきの予感がすると書いている。
歌いたい曲を好きなように歌うコンサートステージに、映画の脚本、監督にも興味を示している。そして最後に、自らが75才になるチューリップ50年コンサートツアーにも触れて、「怖いもの見たさ」でちょっとは興味があると締めくくっている。
ソロアーティストとしてならいざしらず、バンドとしてはどうでしょうか。その真意はさすがにはかりしれないものだった。