今春、イチバンの発見は諏訪根自子さん、もちろん以前から知ってはいたが、これほどとは思わなかった、正統派の美少女、かつての日本には、こういう少女がいたのだ、今は、みな、商業的で時分の花を売り物にしている、なんとあざといのだろう、芸能人は、やはり売笑的、この「売笑」、古代中国では、窈窕(ようちょう)たる淑女は、人前で、歯を見せなかった。
さて、1920年には、
1、原節子
2、李香蘭
3、諏訪根自子
3人の婦人が誕生している、みな大人、ところで法華経では、修行中の若者が避けなければならない人々がおり、それは、
1、芸人
2、相撲取り
3、男であって男でないもの・・・
なかなかの智慧、芸人には人気が必要だが、人気だけが目当ての人生であっては、大切な時期をフイにしてしまう、10年⒛年はあっという間、気がつけば、
未だ醒めず 春草池トウの夢
庭前の桐葉 既に秋声
当時のドイツ人達を魅了した演奏は、どれほどのものか、だが、私にはその妙技のレベルが分からない、諏訪さんのⅭⅮがあるが、それを聞いてもムリだろう、県立図書館に視聴覚コーナーがあり、さまざまの音楽が聴ける、私が都はるみを楽しんでいると、となりのブースの若者、ボロボロのジーンズで赤いスニーカー、そいつが、いや彼が「バッハの無伴奏チェロ組曲」を聞いているではないか、
「ふーん」
だんだんハラがたってきた、だから、耳元で、
「ワアッー」
「な・な・な・なにをするんですか」
「ミエはやめなさい キミはアニソンがぴったりです」
大学にモーツアルト同好会があり、うわっついたキザな空気、
「モーちゃんは バックミュージックにちょーどだね」
総スカン、お出入り禁止、こころのせまい連中だった。
県立のブースで古代ギリシャの音楽を聞く、タイヘンな苦労で復元したもの、それは、
「ほんのりとした悲しみがとけている ついにつかむことのできない理想をもとめたギリシャの人々のなみだがこめられている」
遠い少年の日、野をこえ山をこえ、音でない音、曲でない曲、とうめいなメロデイーがながれている、なにかが生まれるのは音楽的、いくら言っても伝えることができない、聞いてくれる大人がいなかった。
ドイツの若者を魅了した諏訪さんの演奏は、やはり、それなりのものだったのだろう。