「天才」は、これは、近代的概念であり、すべてが神のモノとコトであった中世(ヨーロッパ世界)にあっては、人間の天才はヒツヨーでは無かった。
近代の初期には天才の需要が多かった、天才は才能以上だが、これは、ちょっと分からない、とんでもないところからヒントをつかんでくる、しかし、今は天才にとって不遇な時代で、最先端の研究では、数千どころか数万・数十万いや数百万の素材やデーターから、最高・最適なモノを見つけてくる、これでは出番がない。
それでは、彼らのタッチできない世界、宗教的天才ではどうか、ワタシは多くの宗教者と出会ってきた、
1、Catholic禅の愛宮神父
2、インド仏教の心意識研究の権威
3、イナズマの閃(ひらめ)きの禅宗の師家(しけ)・・・
彼らは宗教人としては、打つ手がミエミエで、その本意(ほい)が分からないことはない、それはイヤミでもある、この時、ひとつの顔が浮かんだ、少年時代を過ごした古刹(こさつ)の老僧だ。
小学の5年生だったか、8月の下旬、井戸端で半紙を広げている、前の日に習字の会があり、子供たちが書き損じた半紙を捨てていった、
「のびやかでやわらかなセン 立ち上がるイノチのかなしみ」
「新鮮で 自由で 溌剌(はつらつ)としている」
「これは この時期でしか 書けないものだ」
「・・・」
「空海や道元も およばない」
そして、傍(かたわら)の葡萄(ぶどう)の樹を指さし、
「来年は 実をつけそうだ そしたら マコト君にも上げようね」
この人こそが、「宗教者」だったと思う。