1211
ベージュのショートコート。
右斜め前を、ヨロヨロと歩く男がいた。
不審に思って、その横顔を見ると、
あの人だった。
こんなに近づくまで、気づかなかったのは、
あの人が、よっぽどユックリ、歩いていたからだろう。
イヤホンのコードが見えた。
でも、そのふらつき方は、リズムを取っているとか、
寒さで震えているのとも、違うように思えた。
「ここは、追い抜いた方が早い。」
私は、振り向きもせず、足早に、ビルに向かった。
歩きながら、カードを取り出した。
同時に、ターコイズブルーの斜めがけバッグを、
あの人に見せたいと思った。
あの人のバッグは、いつも綺麗な色で、オシャレだったから、
見えない反応を、期待していた。
私は、小物を詰め込んで、
パンパンになったそのバッグを、
グルリと、後ろに回した。
0725
ビルの中に入り、エレベーター前で振り返ると、
ガラス越しに、あの人が、清掃員と話しているのが見えた。
朝っぱらから、清掃員に、何の用があるというのだ?
そこまでして、時間かせぎがしたいのか、と思った。
でも、それも、しかたなかった。
前日、同じ場所で、あの人に会っていた。
私に気づいたあの人が、とっさに会釈した。
あまりの久しぶりに、私は戸惑った。
「自分にできる事は、ここまでだ。」と言わんばかりの目力に、
気後れして、中に入った。
あの人はもう、箱の中だった。
4058
トイレで、ミニタオルが無い事に気づいた。
すぐに引き返したが、
屋内では、バッグを体の前に寄せていたので、
落としたら、気づくはずだった。
外にも出てみたが、みつからなかった。
あきらめて、職場フロアで、荷物を降ろした瞬間、
私は、実験刑事トトリのように、強く予感した。
もうすでに、この部屋に、
私の落とし物は、届いていると。
まさかと思ったら、
本当にあったので、ゾクッとした。
その時、清掃員に話しかける、
あの人の姿が、フラッシュバックした。
拾ったのは、
この部屋で、働いている人間の持ち物だと、分かっている人。
この部屋で、働いている私を、知っている人。
私が、これを落としたのを、見ていた人。
あの時、あの人は、私のミニタオルを、
清掃員に渡していたのではないか?
目の前にいる私に、話しかけたくなくて…。
よりによって、コンビニ袋に、丸めて入れてあった、
洗いざらしのミニタオルを見られるなんて、恥ずかしい。
でも一言、お礼を言いたかった。
何より、私が気づいた事を、伝えたかった。
7613
一番、私を知らなさそうな人に、声をかけた。
おしゃべりバカの餌食には、なりたくない。
事情を話すと、聞いてもいないのに、居場所を教えてくれた。
あの人は、異動していた。
まっとうな理由だ。
緊張もしない。
しかし、何度か内線しても、不在だった。
出なくて良かった。
私と話したくないから、他人に預けたのだ。
サイフならまだしも、タオルごときで、
お礼を言われたら、ゾッとするだろう。
あの人は、人の為に動く事が、身についているだけだ。
それは、優しさではなく、単なる真面目さで、
キャパではなく、本能なのだ。
ほら、私は、あなたの事、ちゃんと見てたから分かる。
可愛いものしか、見分けのつかない、あなたとは違う。
でも、会釈された日、
私は無意識に、張り切って仕事をした。
私はまだ、あの男が、好ましいのだろう。
あの真剣な目が、好きなのだろう。
なぜか、少し感動していた。
あの人の行動には、何の深いイミも無いのに。
3810
こんな事なら、あのローズピンクのセーター、
買っておくんだった。
後で買いに行ったら、完売と言われた。
私は、セーターにも縁が無い。
夜、久しぶりに、思い出して泣いた。
あの頃、どれだけ、あなたとしゃべりたかったか。
センスの良いあなたに、趣味や好み、
聞きたい事は、山ほどあった。
誰かと話しているのを見ると、悔しかった。
周りの人間は、私の小さな楽しみを、ズタズタにした。
奥さんに先立たれ、身内に子供を託し、
「イケナカゲンタニハナレナイ。」と言っていた人が、話しかけてくる。
興味の無い人と、話す機会は、いくらでもあるのに、
チャンスがあっても、あの人とは、
絶対に話せないなんて、皮肉なものだ。
「出会えて良かった。」と、言ってくれる人もいるというのに、
あの人にとったら、私は、
洗いざらしのミニタオルのように、いらない物なのだ。
「拾った。」と、言いたくなかったあの人。
「ありがとう。」と、伝えられなかった私。
笑って挨拶など、できない。
あの時の、最後の一文は、本心ではなかった。
時は解決しない。
終わらない感情だってある。
4501
それにしても、あの朝の歩き方は、どうした事か。
ヤマアラシのような頭をして。(笑)
連日の忙しさで、疲れていたのか。
落ち着いて見えて、あわただしい人だから、
仕事のし過ぎじゃないのか。
私は、いつも心配している。
ふらつくその背中を、この手で押して、
「大丈夫?」と、言いたかった。
私も疲れて、冬眠しそうなくらい眠い。
もし、拾ってくれたのが、
あなただったのなら、お礼を言うね。
ありがとう。