諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

少女漫画「キャンディ・キャンディ」は、究極の聖婚ストーリーだったのでは。その2

2020年10月18日 11時27分13秒 | 読書
続きです。

「キャンディ・キャンディ」最大の伏線。それはアンソニーの母親とキャンディが良く似ていると言う点です。

キャンディを見て、アンソニー、アルバートがそう語っている。

それだけでは無い。セバスチャンだかゼーゼマンだか忘れたが、アードレー家の執事??もそう回想している。

アンソニーの母親とキャンディとの関係は何か。伏線を3つも貼っている。其れなのに他人の空似で終わるのか。

私は雑誌編集者や整理記者の経験があります。文章に見出し、タイトルを付けて来た。作者はこう言った暈したストーリーで、タイトルにキーワードを隠す嗜好がある。

「キャンディ・キャンディ(中黒の部分はハートマーク)」。どうしてキャンディの名前を2つ並べたのだろうか。

キーワードの1つはツインだと思います。

悪のツインはニールとイライザ。善のツインはステアとアーチ。そして聖なるツインはアンソニーとキャンディ。更にツインはまだ隠されている。

何で主人公の名がキャンディなのか。

最初は主人公の女の子の名にお菓子・飴の名前を付けるなんて、ベタベタで子供騙しのタイトルだと思ったのですが、私が間違っていました。キャンディはお菓子や飴の名前ではない。

キャンディの本名はキャンディス・ホワイト。「キャンディス」とは「美しい白」と言う意味。更にホワイトを付け加えている。「美しい白・白」。其れは神々しい白だと言える。だから「白、白」で「キャンディ・キャンディ」なのか。

キリスト教に置いて「白」は「聖母マリア」や「エンジェル」を示す色です。

キャンディは聖母マリア。しかし、物語にはもう一人の聖母マリアがいる。それはアンソニーの母親・ローズマリー。

ローズマリーは「聖母マリアのバラ」の意味。そしてアンソニーは自分が品種改良した「スイートキャンディ」と言う名のバラの花を贈っている。どちらも白い花。

バラとバラ。聖母マリアと聖母マリア。つまり「キャンディ・キャンディ」はローズマリーとキャンディのツインを示しているのではないか。

そして「キャンディ・キャンディ」の中黒には愛する印であるハートのマークが入る。ローズマリーとキャンディの2人を愛する者と思考される。その者は誰か。

それはアンソニーとアルバートの2人だけ。「キャンディ・キャンディ」と言うタイトルは、アンソニー、或いはアルバートが発したタイトルではなかろうか。


続く。
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少女漫画「キャンディ・キャンディ」は、究極の聖婚ストーリーだったのでは。その1

2020年10月15日 09時11分29秒 | 読書
コメントをいただいている「みなみさん」のブログを覗いたら、少女漫画「キャンディ・キャンディ」の記事を書かれていました。

50過ぎの私としてはスルーすべきだと思ったのですが、誘惑に駆られて少々コメントしちゃいました。

しかし、コメント欄では十分な事が書けない。下手したら人様のブログを炎上させてしまう。そう危惧して私のブログで書く事にしました。よしなに。


どうですか、今回のお題。50を過ぎたオジサンの私がこんなお題で記事を書くなんて、どん引きしたでしょ。でも、引くのはまだ早いですよ。

子供の頃、「キャンディ・キャンディ」に憧れ、夢と希望を膨らませた純真な乙女心を今も持っている皆さん。これから私が書く記事は読んではいけません。綺麗な心のままだいたいなら、黙ってスルーしてください。とんでもない事を書こうと思っているので。

さて、私は活字中毒で、少しの時間も本を読んでいなければ気がすまない精神異常者です。若い頃は病的に少女漫画でさえも読んでいたのです。気持ち悪いでしょ。すみませんね。

今は漫画はあんまり読みません。老眼もあるし、読んでて苦痛です。今の漫画は大変詰らないので。

それに画風が受け付けない場合もある。人気漫画らしいですが、私、少年ジャンプに連載されているワンピースも読んでいません。絵を見ただけでイライラしてきます。やっぱり鬱病なんでしょうね。

あっ、「キャンディ・キャンディ」でしたね。

まっ、あえてストーリーは申しませんが、この漫画、伏線ばっかり貼って置きながら、その説明も無くストーリーは進み、ラストも暈して終了です。そんなの無いです。

でもね、作者の頭にはちゃんとストーリは有ります。だからこその伏線です。

しかし、伏線の説明は無かった。其れは少女漫画の域を超えている内容だからだと私は思います。何たって小中女生徒向けの清く正しい「なかよし」で連載されていましたから。

私がこれから書く内容だったら、「なかよし」では掲載されないと思います。禁断の内容が含まれてているので。

伏線を全て肯定し、ストーリーの出来事を偶然ではなく全て必然と言うか、仕組まれていたと考えれば、この禁断の解答に辿り着くのが自然だと思います。

それを証明するキーワードもストーリーには散りばめている。其れを曖昧な記憶からではありますが、説明していきたいと思います。

まっ、結論はタイトルに示していますけど・・・・・。


続く。


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漫画「あしたのジョー」の矢吹丈は、ホセとの試合で亡くなっていると思う。

2020年10月12日 04時52分46秒 | 読書
急遽、こんな御題を書きます。私の考え方として。

私は宗教関係の分野を書いたりしていますが、一番重視するのは記紀や聖書等々の編集者・原作者の考えや立場、都合。

そしてやんごとなき事情で真実を語れないとしても原作者の性として、どこかに真実に繫がるヒントが隠されている。そこから推測して自分なりの解答を見出しています。

って言って偉そうな事を言いましたが、今回はタダ単純に漫画「あしたのジョー」の主人公である矢吹丈は、死んだかどうかに付いて考えたいと思います。

まっ、ストーリーは言いますまい。長くなるし、めんどくさいので。

タダ単に最後のホセ・メンドーサと戦い、灰のように白く燃え尽きた。それでジョーは死んだのか、生きているのか。それだけです。

あのラストは衝撃的です。ジョーは力石徹との試合で力石を殺した。そのトラウマで力石を死に至らしめたテンプルの打撃が出来なくなった。

そのトラウマをカーロス・リベラとの試合で克服した。

カーロス・リベラはチャンピオンであるホセ・メンドーサと戦い、一発のコークスクリューパンチでパンチドランカーの廃人となった。

ジョーもパンチドランカー症状となりながら、ホセ・メンドーサと戦う。再三苦戦しながら最後にホセを追い詰める。ホセは殴られても殴られても立ち向かってくるジョーに恐怖を覚え、一瞬で白髪になる。

勝敗はジョーの判定負け。ジョーは灰のように白く燃え尽きる。ジョーは生きているのか死んだのか不明で物語は完となる。

原作者の梶原一騎は、丹下段平に「ジョー、お前は試合では負けたが、喧嘩では勝ったんだな」とか言わせて完としたらしいです。

それに怒ったのが漫画を描いていた「ちばてつや」。

最後の展開は「ちばてつや」の発案。私は暈して終わるストーリーは嫌いですが、秀逸な終わり方だと思います。これだけで「あしたのジョー」は「ちばてつや」の漫画だと実感しています。

そこまでの試合をしたのだから、私としてはジョーには死んでいて欲しい。

ジョーは命をかけて戦い、全てを出し切って燃え尽きた。それは死を意味する。ジョーは死ななくてはならないと想うのです。

その点を作者はどう思うのか。

ジョーのモデルは宮城県出身のプロボクサー・斉藤清作です。彼も打たれても立ち向かうスタンスの試合を続けパンチドランカーとなり、ボクサーを引退。

同じ宮城県石巻市出身の由利徹に師事してコメディアンとなり、「たこ八郎」を名乗ります。

「たこ八郎」はタコなのに酒に酔って海で泳ぎ、溺れて44歳で死亡した。44歳。4+4で8。「たこ八郎」の8。

ジョーが生きていたら「たこ八郎」になってしまう。「たこ八郎」には悪いが、ジョーには「たこ八郎」にはなって欲しくない。

タコなのに海で溺れたと言う落ちで亡くなって欲しくはない。だからホセとの試合で亡くなっていて欲しいのです。

作者は暈したとしても答えはヒントとして残していると思います。そのヒントはタイトルの「あしたのジョー」でしょう。

「あしたのジョー」。ジョーの明日とは何か。

ジョーの明日は「たこ八郎」なのか。

明日は希望ではありますが、死に1日近付く事。全ての生き物の明日は死なのです。

ジョーの明日は試合で全てを出し切って灰の様に白く燃え尽きた。明日を全て使い切った。やはり原作者もジョーの明日は死であるとタイトルで語っている。私はそう捉えます

そう言う事で私は「ジョーは死んだ」と断言したいと思います。

「たこ八郎」には申し訳無いですが。


ではでは。



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太宰治と三島由紀夫。そして芥川龍之介。それぞれの感情。その5

2019年05月01日 10時59分25秒 | 読書
続きです。

三島由紀夫に「貴方の文学は嫌いです」と言われた太宰治はどう思ったか。

太宰治は三島と会った2年後に自殺しています。其の時も死を考えていた。死を考えている者が、小僧の三島に自分の文学を否定されたとしても動じない。怒りさえ沸かない。逆に三島の無知さと若さを羨ましく思ったのではないか。

そこで太宰は三島に何と言ったか。これ、色々諸説があるのです。皆さん、酔っ払っていたでしょうからね。

三島は後の回顧録で「そんな事言ったって、ここにこうして来た訳だから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と言われたと書いています。

同席していた編集者の野原一夫の話では、「嫌いなら、来なきゃいいじゃねぇーか」。これっ、どっちが正しいのか。

どちらも酒を飲んでいたでしょうから、間違いなくとは言えませんが、多分、編集者の野原の方が正確に近いと思われます。

編集者ですから、作者の発言には敏感ででしょうし、間違いが起きないように飲みながらでも警戒はしていると思いますので。

実際に三島はニヤニヤ笑いながら「太宰を嫌いだ」と発言したと言ってますが、野原は「三島は引きつった顔をして発言した」と語っています。

私が37歳の太宰で、21歳の三島にそう言われたらどう返すか。やっぱり「嫌いなら来なければいいだろ」です。酔っていたら、それしか思いつかないです。

でも三島は「やっぱり好きなんだよ」と言われたと主張している。それって自分の正直な発言なのでしょう。三島と太宰の思考は違う。でも根本は同じ。自分とは違う生き方を見せる太宰が好きなんだと思えます。同じゲイでも女性の心を隠さず、女性の心を強調して堂々と生きる三輪明宏の事が好きな様に。

自分には出来ない生き方をしている。それが大変魅力的に見えるのでは。

太宰は自分の駄目さ加減を平気で人に見せる。何度も自殺未遂をした。女性関係が激しかった。そして病弱だった。両親や妹もそうだった。

三島は男爵、官僚の血筋。名家に生まれている。肉親との別れも無かった。恵まれている。だからこそ家の名を汚せなかった。自分の本質は隠さなければならなかった。

太宰は自分の心情をさらけ出す文学。三島は隠して演じる文学。

三島から見れば太宰の方が本音を言えて羨ましいと思っていた点があると思う。それ故、21歳ながら引きつった表情で「嫌いだ」と言ってしまったのだと思える。

でも、本質は同じ。互いに女性性が高い。それを打ち消すために太宰は女性関係が激しかった。三島は自衛隊やボディビルで男の部分を伸長させた。そして互いに限界を感じていた。

太宰が自殺した。死の数日前に、師匠の井伏鱒二に対し「井伏さんは悪人です」とメモを残して。全てを曝け出して死んでいった。

三島は自分の本質を隠して、もっとも男らしい死に方を選んだ。

太宰は女性との心中。三島は自衛隊本部での割腹自殺。これは太宰の死に対して、自分の死の解答の様に想えます。

この自決の連鎖は太宰治が憧れた芥川龍之介に端を発しているものと思われます。

芥川は秘書兼愛人だった平松麻コ素子と心中未遂の後、青酸カリを飲んで自殺した。

太宰治は嫌がっていたと思われる秘書兼愛人の山崎富栄と共に入水した。

これは芥川が望んでいた死を太宰が実行したと言える。

そして三島は太宰とは正反対の死に方をした。多くの聴衆の前での割腹自殺。しかも率いていた盾の会のメンバーと共に。これは太宰に対する自分の生と死の回答の様に思えますね。

そうそう川端康成の場合はどうか。

ちょっと若い頃の写真を見てみたのですが、芥川や太宰とルックスやポーズが似てますね。そして幼少は芥川と同様、肉親に恵まれなかった。親に恵まれないものは死と隣り合わせの人生を歩む。だからこそ大作家になった。

しかし、三島由紀夫を含む多くの文壇人の死を見取ってきた。自分は取り残される感覚に陥った

そして親に恵まれなかった死の束縛が強まる。愛していたと思われるお手伝さんとの契約の延長を拒まれショックを受ける。彼にはそのお手伝いさんとの付き合いだけが楽しみであった。それが消える。そして、とうとう死の束縛に嵌った感じがします。

太宰、三島、川端の自死の連鎖は、芥川龍之介が初端の様に思われます。

姓名判断での解釈ではそれぞれに死の暗示があるのですが、芥川龍之介が自死を選んでいなかったら、この様な死の連鎖は起こらなかった。

自死は疱瘡の様にうつる。余り自死した者の心とシンクロすると危険かも知れないです。

私も今回の記事を書いてて、欝を募らせている。少なからず危険な状態にいる。

うーん、駄目だ。まだまだ言いたい事があるのですが、彼にらに引っ張られる前に今回の御題は終了します。

危ない、危ない。


ではでは。

















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太宰治と三島由紀夫。そして芥川龍之介。それぞれの感情。その4

2019年04月29日 08時40分49秒 | 読書
大家関係の人で、私が考えている商談を聞き出して横取りしようとした人がいました。油断した。声と人相からして悪質な感じがしたが、まんまと乗せられた。

忘れていた。仙台人の人の悪さを。色々問題が起こりそうだ。憂鬱。どうも私はお金お金している人が苦手。人生、お金よりも命だと思っているし。

久々に精神状態が悪い。デパスを飲んでいる。

背中と腰の痛みで寝たきりとなり、89キロまで太ったが、今回の事で食が進まず85キロに戻った。もう少し欝が続くだろうから、80キロを目指そうかな。私の得意の欝ダイエットで。


さてさて、難しいお題を選んじゃいました。人の心なんて分からないのにこんな記事書いてどうしたもんだか。大変後悔しております。しょうがないですが続きです。

太宰治と三島由紀夫を一度だけ会った事があるみたいです。太宰治が絶頂期の37歳、三島由紀夫は在学中の21歳。一応、文壇デビューはしていた時です。

会は太宰治を慕う作家志望の者達が多数集まっていた。三島由紀夫は予てから太宰治を批判していたから、仲間が面白そうだからと三島を連れて行ったみたいです。

三島が太宰の文学を嫌っていたのは、文壇意識、自己戯画化、そして野心だったみたいです。

実は私も野心を持った人間は苦手です。それと文壇意識と言うのは、「自分は大作家だ」と誇張する感覚を指しているのでしょうか。人間、誰しも少なからずその感情があると思いますが、私もそう言う人は苦手です。

そして自己戯画化。これ、私もよくしますね。私のブログでも人を小バカにして、皮肉たっぷりに書いたりもしています。うーん、私は太宰治と似た点があるのかも。

でも、それって三島由紀夫もそんな性質だったのでは・・・・。

太宰治は憧れていた芥川龍之介の姓を冠した芥川賞が欲しい。三島由紀夫をノーベル平和賞に格別な思いを持っていた。そして二人とも生と死が文学のテーマだった。私はこの二人、似ていると思います。

そして二人ともゲイの心が多分に有している。太宰治にゲイの心を感じ取った三島は、太宰に妙な感情を覚えた。

ゲイって人それぞれです。性器を切っちゃって完全に女性にならなければ気が済まない者。男の姿、そのままでいる者。

どちらにしても恋愛対象は同性。その心情はどう言うものなのだろうか。

戦国時代、男は女を愛す。男の中の男は男を愛すと言う風潮がありました。織田信長に愛された前田利家は他の者に羨望の目で見られていた。

時代は過ぎ、昭和と成るとゲイは変態的に思われるようになった。その心をひた隠すにするようになった。

そしてゲイである三島由紀夫は太宰治に同じゲイの匂いを感じた。そこから太宰治に興味と嫌悪感を覚えたのではないでしょうか。

さて、太宰治はちやほやしてくれる後輩に囲まれて上機嫌で酒を飲み、ヘベレケに成っていた。その太宰に向かって三島はこう言った。「僕は太宰さんの文学が嫌いなんです」と。


続く。







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