世の中、いつ何どき何が起きるかわからないが、
体験しなくてすむこともある。
一人子を亡くすなんていうのは、
できれば経験したくないことのひとつだ。
しかし、一人子をなくしたのは私が初めてではない。
古よりたくさんの母たちが経験したことだ。
戦争で、病気で、まだ若い子を亡くした母はたくさんいる。
柳原白蓮は息子と娘がいたが、息子が戦死した。
一晩で白髪になったというが、あり得ることだと思った。
それほどの衝撃なのだ。
世界が粉々に打ち砕かれたようだった。
衝撃を受けた直後は何が起こったかわからず、
わかった直後は衝撃に耐えるために叫んだ。
体が引き裂かれるようで、立つことも坐ることもできず、
四つん這いになった。
四つん這いになって叫び続けた。
古代の葬儀に悲しみを表す儀式「匍匐礼」というのが
あると聞いたことがあるが、
四つん這いになって這いまわるのは、
究極の悲しみに耐える姿なのだと初めて知った。
突然、子に死なれていいことなどはないと思うが、
ぼんやりした頭で、戦争などで子をなくした
母の気持ちが理解できるようになった、と思った。
古代の儀式が単なる形式でなかったことを知った。
*
20年前、父を亡くした。
腎臓病で透析を長くしていたし、
入院させていたので覚悟はしていたが、
それでもおとうさん子だった私には
たいそうなショックだった。
しかし、10代の子の子育て、
夫の事故・病気、私自身の仕事も忙しく、
悲しみにひたる間もなく、
ショックに蓋をしたまま年月がたった。
親の死は乗り越えられるものだ。
半身をもぎとられたように悲しかったのに、
もう今では、父が生きていたことすらおぼろだ。
今回は母たちの介護があるので、
泣く暇もなく保佐人の仕事と介護に奮闘している。
しかし20年の歳月は、私の回復する力を奪った。
体力が子が亡くなる前の半分になった。
直後は3分の1くらいと思ったので、
それよりも回復していると思うが、
仕事への復帰はかなわなかった。
母が退院してから子がなくなるまで2ヶ月、
仕事と母の保佐人の仕事と介護を何とかこなしていたのだ。
目が回るような忙しさだった。
体力も限界に近かった。
あのまま続けていたら、
間違いなく私が病気になっていただろう。
母の認知症も確実に進行していて、
1年前にできていたことがもうできなくなっている。
何よりも辛いのは、忘れるということではなく、
母が母でない人になっていくことだ。
忘れることはメモを書いたり
やり方を工夫すればカバーできる。
しかし、人格の変化は耐えがたい。
かかりつけの先生に、そろそろグループホームを考えては、
と背中を押されて、見学に行った。
「心の傷が深くならないうちに」と言われて、
そうか、そういうことなのかと思った。
順番待ちというので、よさそうなところに申し込んできた。
そこで終末を迎えることはできないが、
認知症専門なので、私のような素人が看るよりも
的確な介護をしてくださるのだと思う。
今日、2度目の保佐人としての報告も終わった。
初めての確定申告も終わった。
すっかり日差しが春めいて、まぶしい。