ノイバラ山荘

花・猫・短歌・美術な日日

冷泉家―王朝の和歌守(うたもり)展@東京都美術館

2009-11-29 22:11:11 | アート
先日、銀杏の黄葉美しい上野で冷泉家のお宝を見てきました。
「冷泉家―王朝の和歌守(うたもり)展」

短歌を勉強する以上、
和歌に無関心ではいけないと観る決心をしたものの、
日本史も日本文学も書にも盲目同然の私ですので、
音声ガイドを借りることにしました。

展示の書を眺めながら、解説を読みながら、音声ガイドを聞くという
複雑な行為は私には難しく、
ワンフロアを見終わる毎に座って目を閉じて、
もう1度音声ガイドに集中しました。
結果的にはこれがとても鑑賞の助けになり、
またこの冷泉家展を特集した「芸術新潮11月号」も、
初心者の私には理解の助けになりました。

冷泉家の「御文庫(おぶんこ)」には俊成・定家以後の典籍・文書が
納めてあり、ここからほぼ400点が展示されています。

 
俊成の鋭角的な字、定家の剛毅な字、いずれも個性的で
素晴らしいと思いました。

勅撰和歌集「古今和歌集」「後撰和歌集」、
夥しい私家集など定家のエネルギッシュな書写は、
もちろん歌の家としての自覚があってのことでしょうが、
和歌をわがものとしようとする気迫あふれる字と思いました。
本歌取りも一朝一夕に成ったものではなかったのです。

「源氏物語」「伊勢物語」も繰り返し書き写したので、
写本を遡ると必ず定家に辿り着くらしいです。


反故紙の裏に60年に渡って書き続けられた定家の日記
「名月記」も巻物になっていて面白く見ました。
世間のできごとや愚痴や不満、熊野行幸、天文のニュースなども
織り交ぜさまざまなことが書き込まれています。

使われた紙は灰色の再生紙だったり、手紙の裏に書かれていたり。
私家集でも紙や装丁に凝った美本がある一方、
こうしたリサイクル、リユースの紙が使われているのが印象的でした。

平安中期、源時明の私家集「時明(ときあきら)集」、
作者未詳ですが字だけでなく装丁も美術品のよう。
見た瞬間にはっと息を飲むような美しさです。
人の手に書かれたとは思えぬ字です。

冷泉家の和歌を守るための800年の苦闘は、
この展覧会を観なければ知らなかったことでした。
和歌なんですから、国によって保護されていたという
イメージだったのですが、そうではなかった。
第二次世界大戦後の混乱をくぐりぬけたものの、
1981年に財団法人冷泉家時雨亭文庫が設立されるまで、
免税措置が受けられずあわや売却ということにまで
追い込まれていたのでした。


私たちの短歌とは違うものだけれど、和歌は根っこの部分。
現代短歌は私とあなたの違いを詠み、
和歌は私とあなたの同じところを詠む、
また現代短歌は目で読み、
和歌は声に出して読むのだ、
という冷泉貴実子さんのお話が音声ガイドの途中に挿入されていました。

友人が声に出して私の歌を読み上げてくださっている、
というのを恥ずかしい思いで聞いたのですが、
これは古式にのっとっているのでした。
迷う時は根っこに帰るのがいいのかもしれません。

カタログ見ながら時を遡ってます。
ああ、しあわせ(人-ω-)。o.゜。*・★

速水御舟@山種美術館

2009-11-26 00:11:15 | 美術
「速水御舟―日本画への挑戦―」を観た。
このたび広尾に移転した山種美術館、新美術館開館記念特別展。
山種美術館

恵比寿駅から徒歩10分、
駒沢通りを広尾小学校、中学校方面に真っ直ぐ、分かりやすい。
千鳥が淵の傍らの以前の建物に比べると、立派な「美術館」だ。

19日、平日の午後にもかかわらず、混んでいた。
「新日曜美術館」などTVで宣伝された週は必ず混むのだが、
知らずに行って「日本画にこの人出」と驚いた。
特にエントランス、地下のショップは
余り広くないので人でごった返していた。

速水御舟(1894~1935)
大正、昭和初期に活躍。
あまり日本画は観た事がなくてほとんど何も知らないのだが、
御舟はデッサンを東京国立近代美術館で観てから、
ずっと気になっていた画家なのだ。

  


有名なのは、山種美術館所蔵の重文「炎舞」「名樹散椿」だろうが、
その琳派風と、国立近代美術館所蔵の「京の舞妓」などの
細密描写は同じ人が描いたとは思えない。



植物や昆虫などはリアルだ。
写生帖の植物がボタニカルアートのようで素晴らしい。
山種美術館の絵葉書になっていて、オンラインショップでも
購入できるようだ。おすすめ♪

今回は渡欧後のヨーロッパの風景を描いたものを初めて見た。
 オリンピアス神殿遺址。

今まであちこちでばらばらに観ていた絵が、
「あっ、これも御舟だったの」「これも」という感じで、
まとめて観るとまた違った印象。
40歳で亡くなっているので、20余年の画業、
700点余りの作品であるが、短い一生とは思えない凝集力、多彩な画風。

創造と破壊を繰り返した御舟の姿勢をよく表す言葉。

「絵画修行の道程に於て私が一番恐れることは
型が出来ると云ふことである。
何故なれば型が出来たといふことは
一種の行詰まりを意味するからである。
藝術は常により深く進展していかねばならない。
だからその中道に出来た型はどんどん破壊していかねばならない。」

「梯子の頂上に登る勇気は貴い、更にそこから降りて来て、
再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い。」


ショップで入手した東京美術のアートビギナーズコレクション
『もっと知りたい速水御舟』が分かりやすかった。
このシリーズはゴーギャン、フェルメールのものも持っているが、
いずれも私のようなビギナーには、時代背景、作者の解説とともに
作品の変遷が整理してあって、作品理解のよい助けとなった。

鞄と時計

2009-11-25 22:15:11 | 短歌
先月「鞄」の歌を探していて気が付いた。
「鞄」が詠み込まれた歌は少ない。

考えてみれば、鞄というのは西洋のものだから、
少なくとも明治以前に鞄の歌がないのは当然である。

国内で鞄屋さんが出来たのが明治20年頃、
庶民の手に入るようになったのは、もっとのちのことだろう。
それまでは、今で言う鞄こそなかったが、
武士たちが鎧を入れた「鎧櫃(よろいびつ)」、
医者の「薬篭(やくろう)」、床屋の道具入れとしての「台箱(だいばこ)」、
そして庶民が旅行の時に使った柳ごおりなどがあったらしい。
そういえば、風呂敷だとか布の袋も携帯の鞄と言えるだろう。

短歌で最初に「鞄」という言葉を使ったのは誰なのだろう。
珍しいものとして詠んだのか、かなり普及してから詠んだのか。
トランク、リュックサック、ショルダーバッグ、ハンドバッグなど、
何が一番よく詠まれているのだろうか。
最近では、男性歌人に鞄の歌が多いように思った。

・異国には異国の香り良き旅を終へてしばらくカバンを干せり                                         
                    大松達知『アスタリスク』

今月は「時計」の歌を探しているが、これはありそうで、ない。

最近では腕時計をしている人は少ないし、
私も携帯電話で時間を見たりする。
公共の場で時計を見ることが少なくなり、
携帯電話を忘れると時間の確認ができなくて困ることがある。

きっとそういう背景もあって、時計の存在が希薄になっているのだろう。
多分、2、30年前以前の方があるに違いない。

・四時にて止まる癖の時計はひきだしの中にていつも・いつまでも四時                          
                     齋藤史『ひたくれなゐ』

御茶ノ水橋

2009-11-20 22:49:33 | 日常


御茶ノ水駅から見える御茶ノ水橋、今のものは昭和6年建造、
78年たっているらしい。

先日夕刻、雨の降る御茶ノ水駅のホームに立って、
左手にこの橋を見ていたらとても綺麗だった。

振り返って右手の聖橋を見てみると、それほど綺麗に見えない。
橋自体は聖橋の方が美しいというのが一般的な評価だ。
御茶ノ水橋の方が実用本位に作られていて、風采のあがらない橋なのだと、
どなたかが書かれていたのだけれど、私には御茶ノ水橋の方が美しく見えた。

何故だろう?

比べてみると、人の数が違うのだった。
JRと丸の内線乗り換えのためだろうか、
青い夕暮の中、色とりどりの傘が行き交う。
全体的に青い色調でモノトーンに近い。

すっきりとした造りの橋なので、その様子が邪魔されないで見える。
橋脚がそれを支えて、暗い神田川。

ああ、この橋の美しさというのは、建造物の形だけではなく、
それを容れる人の姿があって完成するものだったのだ。
用に徹した橋の美しさだ。

写真を撮ってみると、なんだかありふれた風景で、
橋はただの橋なのだが、
あのときは一瞬、魔法がかかったのだろう。
青い絵画を観るような、幸せな一瞬だった。



昭和の風景

2009-11-19 16:15:11 | 日常
また昔の話で恐縮ですが、小学1年生の絵日記を見ながら、
生活の細部を思い出してみました。

①ちり紙

小学一年生の私が自転車の後ろに積んだ
ちり紙とはどんなものだったのか?

トイレットペーパーの前身であるトイレのおとし紙と思ったのは、
当時の汲み取り式のトイレの便器の斜め左あたりに、
長方形の竹で出来た籠がおいてあって、
そこに灰色のごわごわしたおとし紙がおいてあったのを
思い出したからです。
多分、当時5人家族のわが家で一番消費する紙は、
このちり紙だと思ったのです。

後にはもう少し白くてやわらかな品質になったと思いますが、
地方に行くと、切った新聞紙が置いてあることがありました。
幼い私は、こんなに固いものでどうやって拭くのだろうと、
泣きそうになり、恥ずかしいので誰にも聞けず、
トイレ恐怖になった覚えがあります。
うろ覚えですが、新聞紙どころか、
藁が置いてあったこともあるのでは?

母にたずねても、このちり紙、
どういう形態のものを買ってきたのか、覚えていないそうです。
少し調べてみましたが、
どうもこのおとし紙の歴史は江戸時代に遡るらしいのです。

江戸時代は紙のリサイクルが徹底して行われ、
回収された古紙を再生して使っていましたが、
おとし紙として使われるのは簡単な再生紙で、
色が残っていたりゴミが交じっていました。
色を抜いたり手間をかけて丁寧に再生されたものは、
上等な紙として使われます。

どうやら、高度成長期前はその江戸時代からの
システムの続きらしいのです。
やがて水洗トイレの普及とともにロール状になった
トイレットペーパーが使われるようになりました。

しかし、確か、トイレのおとし紙のほかに、
鼻をかんだりするための、ちり紙もあったはず。
小学校で、ハンカチちり紙検査というのがあって、
毎朝ポケットにハンカチとちり紙をたたんで入れていた気がします。
今でいう、ティッシュペーパー、ポケットティッシュの類です。

家の中のどこにどのように置いてあったのか?
今のティッシュほど大量に消費はしていなかったはずですが、
どこかに置き場所があったはずです。
毎日、学校に持っていっていたのですから。
当時発売されたばかりのティッシュペーパーだったのでしょうか?
どなたか覚えていらしたら、教えてくださると、
このもやもやがすっきりします。
お願いいたします。<m(__)m>

②ジャー

ちっちゃな冷蔵庫の横に、「ジャー」がおいてあったのを思い出しました。
これは、まだ保温機能がついた電子炊飯機が出回る前の商品と思います。

当時うちでは、ガス台で飯盒のご飯を炊いていました。
炊いたご飯が冷めないように、飯盒を布巾でくるんで、
「ジャーに入れて」と頼まれて、入れていました。
金属製の灰色の円筒形で、外蓋を開けるとしっかりとした内蓋があって、
内蓋を開けると中は銀色の鏡のようになっていて、
底の方に飯盒を入れると、上にまだ隙間があったと思います。

しかし、なべの類を入れた覚えはないので、
私が思うより小型であったかもしれません。
もちろんお湯を保温するためのポットよりもずっと大きくて、
私の記憶では外形50cm×1mくらいではなかったかと思うのですが、
子供の記憶ですので、大きく感じたのかもしれません。

母に聞くと、私がまだ1年保育の幼稚園に上がる前(1960頃?)
に買ったもので、温かいものだけでなく、冷蔵庫のなかった時代には
氷を入れて半分に切ったスイカを冷やしたそうです。

私が中学3年生のときの引越しには
このジャーは連れてこなかったらしいので、
保温機能つきの電子炊飯器が現れる前の、
過渡期の製品だったのでしょう。

調べてみると、このジャーは魔法瓶の系譜らしい。
20世紀初頭に世界で普及した魔法瓶が
日本で生産しはじめられたのが1912、
卓上魔法瓶が1923、
大量生産が可能になったのが1963、
象印などはこのときにお米を保温するジャーを作ったらしいのです。

それより以前に、どこのメーカーがジャーを作っていたのか
・・調べた範囲では出てきませんでした。
うすらぼんやり覚えている灰色の金属についたマークは日立ですが、
扇風機も同じ色だったので、扇風機の記憶かもしれませんし。
のちに来た掃除機は東芝だったような気がします。

③扇風機

ちなみに扇風機は私の誕生とともにわが家にやってきました。
熊本から大阪に越してきたばかりで、
母は大阪のむうっとした酷暑に耐えかねて、
扇風機を買ったのだそうです。
確かに赤ん坊にお乳を含ませながら、
団扇を使うことはできません。
私は汗疹(あせも)だらけで、
ドクダミの行水をしてもらったそうです。(今でいう、ハーブバス?)

④洗濯機

これは私が1年生のときではなく、しばらくしてからです。
お風呂場においてありました。
ちなみにお風呂は灯油で沸かすタイプで、
勝手口に炬き口がありました。

この洗濯機、脱水機などはなく、洗濯物を2本のローラーに挿んで、
取っ手を回すと洗濯物が絞れて押し出されてくるのです。
手で絞るよりも楽ですが、何しろ手動ですから、
取っ手を回すお手伝い、洗濯物を挿むお手伝いをしました。
洗濯物もうまく平均して薄くして入れないと、
取っ手が回らなくなりますから、気をつけました。

これが来る前、母は「たらい」で洗濯板を使って洗っていました。
手洗いの方がよく落ちるといって、来てからも長く
つい10年前まで「たらい」は使っていました。

⑤洗い張り

電化製品ではありません。
祖母が和服をほどいて、洗い張りをしていたのでお手伝いをよくしました。
商売ではなく、普通の女性がする仕事です。

反物になった着物地を洗って、布の初めと終わりを挿んで
柱から柱に渡したものに、伸子針を打っていきます。
伸子針というのは、両端に小さな針が付いた細い棒で、
竹でてきていたのでしょう、よく撓いました。
布の両端にそれぞれ針を刺すと伸子針は弓状になり、布はぴんと伸びます。
これを20センチ間隔くらいで打っていき、天気のよい日に干します。
皺が寄らないように、きちんと平行になるように、
等間隔になるように気をつけます。

お日様と、割烹着の祖母の背中と、光を通して揺れる反物と。
乾いたら、また和服に仕立て直します。

今ならクリーニングがありますが、昔の女性は忙しかったのです。
お裁縫やお洗濯が苦手では、暮らしてゆけなかったのですね。
おそろしい時代です。(笑)
私などは、主婦失格(今でもそうですが(・ω・;A )間違いなしです。

大柄で骨格のしっかりした明治生まれ祖母と違って、
熱ばかり出して直ぐダウンするチビの私など、
主婦としての役目をまっとうできたとは思えません。

そうそう、洗濯物を干すのも、最初は竹竿、
のちにそれがビニールでコーティングされたものになり、
やがて金属製になりました。

歌人三ケ島葭子は明治19年生まれ。
きっと祖母のようにこまごまと家事をこなしていたに違いありません。

・裾の方は灯に遠し夜の部屋に布子ひろげて綿を入れをり

・天気よくて張物さはに乾きたり布(ふ)海苔の汁の少し餘れる

・竹竿の朽ちて割れ目に入りし雨打ちおとしつつもの干す今朝は
                         三ヶ島葭子

薔薇窓

2009-11-18 21:26:26 | 日常

・水紋のごとく薔薇窓昏れなづむわれと崩れよあをきあかき環
              日置俊次『ノートルダムの椅子』


子供の頃の箱の中から出てきたノートルダムの薔薇窓のカード。
パリのおみやげにどなたかからいただいたのだろうか。
光を通すとなんだかほんとうに綺麗で、しばらく見とれた。

すっかり忘れていたけれど、そののち本当の薔薇窓も見ているのだ。
駆け足旅行で連れて行かれただけだったので、記憶に残っていなかった。
憧れてもいなかったのだろう、記憶に残らなかったのは。
街の酒屋さんで安い白ワインを身振り手振りで買ったのだけを覚えていた。

スペインで熱を出し、プラド美術館を観られなかったのだけが心残り。
ここでも肝心なところで熱を出してダウンしていたのだった。

その頃の写真を観ても、ぼんやりとしている今とあまり変わらない。
体型の変化はあるものの、中身が進歩していないのだろう。
風雪に耐えた風格というものはない。

しかし、今の私が薔薇窓を見たら、きっと泣くだろう。
建物に穿たれた穴に美しい光を充たした人の心に打たれて。



さろん・ど・くだん@山の上ホテル

2009-11-14 11:02:12 | 短歌
昨夜、冷たい雨。
山の上ホテル別館2階「海」において開催された、
「第三回 さろん・ど・くだん-佐佐木幸綱さんとの夕べ-」
参加者128名。
俳句の超結社の同人誌「件の会」の方々と俳人、
歌人の参加である。
わが結社からは14名。

短歌に加えて俳句をたしなむ方がいらっしゃるが、
「件の会」の黒田杏子さんをはじめ、
坪内稔典さんなど俳人の方々もわが結社の会員なのである。

先生のお話はスポーツ・父と息子・酒・アニミズムをキーワードに
ご自身の作品を引用しながら短歌史と自分史を重ね合わせて、
初めての方にも分かりやすい内容であったと思う。
正面に座られた金子兜太さん、また「件の会」の論客との
丁々発止のやりとりが刺激的であった。

この「件の会」の論客のお一人、細谷喨々さんが、
なんと25年ぶりにお目にかかった
聖路加国際病院の小児科のドクターなのであった。

結婚後、妊娠するまで一年半ほど図書室に務めていたとき、
クラシックなペントハウスの図書室に、
よく細谷先生はおみえになっていたのだ。
当時の図書室のチーフは今はアメリカにいらっしゃるのだけれど、
仲良しでよく遊びにみえられていたのだ。

今では副院長であり、小児総合医療センター長に
なられている先生でいらっしゃるので、
私が一方的に覚えているだけで、一年半いただけの
アルバイトの私を覚えていらっしゃるはずもないが、
チーフのお名前を聞かれると、「今でも時々お会いしています」
とのこと。

小児科も図書室もともに病院では花形ではなくて、
効率を考えれば削られる部分であるので、
先生もチーフもともに闘う同志といった面があったと思う。
多分、戦い続けられて、日野原先生の信を得て、
副病院長になられたのだろう。

あの頃より髪は白くなられたが、
眼光鋭く、すっきりと無駄なく立たれるお姿に
背筋が伸びる思いであった。

「新しいものに出会う」つもりで参加した会であるのに、
思いもかけず四半世紀も昔の方との出会いがあったのである。

着信さえずり

2009-11-12 17:24:24 | 日常
うふうふ。
うふふ。

車もパソコンも携帯もブラックボックス、
機械音痴の私ですが
――音痴でない領域の方が甚だ少ないと思うけれど――
「ことりのさえずり」のpikaさまのおかげで、
この度めでたく携帯電話の着信音を
鳥の囀りにすることができました。

自分のパソコンへのダウンロードの仕方が分からず、
何度やってもうまくいかなかなくて、
しばらくやめていたのだけれど
何日か前に出来そうな気がして、やってみたら出来ました。
出来てみると、実に単純なことなのでした。

まず該当の鳥の青文字を右クリック
→「対象をファイルに保存」をクリック
→ファイルに保存でOK。
あとは指示どおりにメールに添付、自分の携帯に送り、
送られたデータを着信音に設定するだけでいいのです。

恥ずかしいことですが、いつまでたっても初心者の私です。

偶然Pikaさまと同じauだったおかげで、
毎日、お友達や家族からのメールや電話のたびに鳥が囀り、
ものすごくシアワセ(人-ω-)。o.゜。*・★

今はいろいろ試してみているところで、
Eメールがノジコ、Cメールがノビタキ、電話がカッコウ。
最初は慣れなくて、「うん?」と思ううちに
電話が切れてしまったりしましたが、もう大丈夫。

山に行ったら、本当の囀りと混乱してしまうことが
あるだろうけれど、山では携帯電話は
ほとんど使わないからいいのです。
高尾山は頂上までも電波が届くので、
お友達と写メールのやりとりができて
それはそれで楽しかったのですけれど。

どうかメールと電話下さいませ<m(__)m>
「こんにちは」だけでいいから、
たくさん囀りを聞かせてね。

パソコンでも、聞くことができます。
どうぞお聞きになって下さいね。

HP「ことりのさえずり」着信さえずり



絵日記

2009-11-11 22:26:22 | 日常
幼稚園から小学校低学年のときの絵が天袋から出てきた。


なんともなつかしい、ミルトン(フルーツカルピスのようなものが
丸っこいガラスのボトルに入っている)の紙箱に入っている。
母は忘れただろうが、このミルトンのえくぼのあるボトルは
醤油入れになって長くガス台の傍らにあったのだ。
箱は埃まみれのぼろぼろだが、中から出てきたクレヨン画は
昨日描いたようにきれいだ。

 
 
 
 
 

1枚1枚、先生の赤丸印やらよく出来ました桜判子があるので、
学校で描いたものだろうが、夥しい数だ。

私は捨てられない女なので、スペースがある限り何でも保存しているが、
母は捨て魔なので、もうそんなものは残っていないだろと思っていた。
天袋は高いところにあるので、背の低い母の死角だったのだ。
しかし、80歳になったので身の回りを片付けたい気持ちに
拍車がかかったらしく、1度も見たことのない天袋に目をつけたらしい。

私が27歳のときに、それまでのデッサン、油絵などとともに
高校の学生鞄や中学校で配布されたパンフレット
(ガリ判刷りの藁半紙をホチキスでとめたもの)の類と
その幼い絵の入ったミルトンの箱を天袋にしまって、
旅行に出かけるようにお嫁に行った。
私の部屋はそののち父が死ぬまで使い、今は母が使っている。


ミルトンの箱の中の絵では、小学一年生のときの
夏休み絵日記がめちゃくちゃ素敵で、母と笑いながら眺めた。

毎日、毎日、前年の春に生まれた妹のことばかり書いてある。


1ページ目、7月21日、ピアノが来た日。
「きのうよるにぴあのがきました。
きょうのあさ、うちのYこちゃんといっしょにぴあのをひきました。」


7月28日、自転車が来た日。
オレンジ色のクレヨンでページいっぱいの自転車の絵。
7月30日、「もうわたしはじてんしゃにのれます。」
7月31日、「きのうじてんしゃのうしろにちりがみを
のせてかえりました。」とある。
このちりがみはもちろん今のようにふわふわの
ティッシュペーパーでもトイレットペーパーでもない。
おそらくトイレで使っていたごわごわの四角いちりがみだ。
近所の商店街で買ってきたにちがいない。
一人のお使いか、お買い物についていって荷物運びをしたのか
覚えていないが、妹が生まれて忙しい母の手伝いをよくしていたのだ。

冷蔵庫を開けると妹は泣いたらしい。
「うちのYこちゃんはわたしがレイゾウコをあけると
まんまといってなきます。ぎゅうにゅうがみえるからです。」
前年千葉に父が建てた家に引っ越したのばかりだったので、
その小さな冷蔵庫も新しく買ったものに違いない。
白黒テレビはすでにあつたが、掃除機、電話、洗濯機は
このあたりでうちにやってきたのだと思う。
昭和30年代後半、妹は経済の高度成長とともに生を受けたのだった。

「けさうちのYこちゃんはいぬまるさんにおいもをもらいました。」
お向かいの犬丸さんはやさしいおばあちゃまで祖母と仲良しだった。
私も「れもんのソーダすい」をごちそうになったと書いてある。
↑食べ物のことばかり(笑)

「らじおたいそうからわたしがかえると
うちのYこちゃんは『ちゃいり(おかえり)』といいます。」

「きのうYこちゃんがえんぴつけずりをまわしてあそびました
えんぴつはいれませんただぐるぐるまわすだけです。」
読点が全くないのが、ぐるぐる回る感じで素敵。(笑)

妹の行動の一つ一つがニュースなのである。

最後に8月14日「けさYこちゃんはあるきました。」と
母と私の真ん中で手を繋いで歩く妹の絵。
ずっと這い這いをせずに、座って足だけでいざっていた妹は、
さんざん母を心配させたけれど、1歳四ヵ月で妹は歩いたのだ。

日記はもうページがなくて、あとの2週間をどのように過ごしたのか、
気になるところではあるが、1年生用に20枚しかない絵日記なのだ。


8月6日、親戚でもない綺麗な「ようこおねえちゃん」が出て来て、
「きのうとうきょうでおねえちゃんにおみやげをもらいました。
ようこねえちゃんとさんどいっちををたべました。」
母が「私は一緒に行かなかった」と言いだして、
おそらく父がわたしを連れて会いにいったであろう
謎の「ようこねえちゃん」の身元の推理が始まる。

8月10日、「きのうたつおにいちゃんがよるにきました。
おおきなすいかをもらいました。」
と父の従兄弟がスイカを提げてくる姿。
当時「たつおにいちゃん」は横浜に住んでいて、
このときはまだ独身だつたと思う。
じきに所帯を持って、わたしはお泊まりで遊びに行ったらしい。
数年後の絵日記に生まれたばかりの赤ちゃんや
氷川丸のことなどが書かれていた。

ほんとうにこんなことがあったのだ。
たどたどしいけれど、そのとき持てる力を全部使って、
自分が出合ったできごとをあらわしているのである。

自分でも書いたことを覚えていない。
現在の私は社交嫌いと思い込んでいるけれど、
絵日記には、家族やお友達や先生が生き生きと描かれているのだ。
家族やお友達と一緒に行った大洗の海、プール、谷津遊園。

40年後、人の出てこない短歌を作り、
人の出てこない写真を撮るようになるなんて、
そのときには想像もしなかっただろう。

2年生になると、絵もなんだかつまらなくなり、
絵日記も投げやりで、素朴な喜びは消えていた。