ノイバラ山荘

花・猫・短歌・美術な日日

秋の前髪

2009-08-25 14:17:47 | 植物
視界から消え去っていくメタリックな夏の尻尾と、
私の前にあらわれる薄のようにさらさらとした秋の前髪。



ことしの夏は「暑くて眠れない日」が1日もなくて、
「若からぬ身」には、本当に楽だった。
O野さんの口癖、50代は確かに「若からぬ身」であります。



職場のアプローチのゴーヤ。



百合はヤマユリよりもこの百合がいいなあ。

調べてみると、園芸種のテッポウユリと似ているけれど、
葉が細いタカサゴユリ(高砂百合)と言うらしい。
台湾からの帰化植物で、繁殖力が強いとある。
そういえば、あちらこちらの野にも清楚な花を咲かせている。
しかし、派手なヤマユリの方が由緒正しい日本の百合なのであった。

私の棺は、白い百合といい匂いのピンクの薔薇で埋めてほしい。
あまりの芳香に呼び戻されて、目覚めてしまうかもしれないけれど。




こんなお家が街中にまだ残っている。
八王子市は1945年8月2日の空襲で
市街地の8割が消失したらしいから、
戦後の建物には違いないけれど、この年季の入り方は、
まだ物資がない時代のものに違いない。

絹織物の紡績工場の赤い三角屋根の建物がまた取り壊されたように、
このお家もいずれ壊されてしまうのだろう。

八王子駅では中央線開通120年記念の写真パネル展をしている。

シソジュース

2009-08-25 10:50:10 | 飲食

職場近くの無人販売でシソを入手。
シソジュースはずっと前に作ったなあ・・と
日記をさかのぼったら、3年前の8月20日でした。

おお、3年前といえば、毎日寝食を忘れて(笑)
熱狂的にミクシィの日記を書いていた頃ではありませんか!

ネットサーフィンを始めた5年前は、
はりねずみちゃんをはじめとして他の方の日記の愛読者で、
書くことを勧められたけれど「私には書けない」と
思い込んでいたのです。
たまたま愛知のT田さんと短歌のメールをやりとりしていたところ、
面白そうでミクシィに入れていただいたのでした。

書き始めたら、面白かった!
幼いときより日記など続いたためしがなかったのに、
自分の興味のあることだけを書いていいなんて、
こんな楽園があるかしら!

写真とセットというのもよかったのかもしれない。
写真を撮るのも面白くなって、カメラを持ち歩きました。

ずっと歌は作っていたのですが、
あたりまえのことですが制約が多いですし、
ある世界を構築するため不要なものを
切り捨てていく苦しみがあるのですが、
日記ではのびのびと手紙を書くように
文章を書くことができました。

ミクシィは読む人が限定されるので安心して書けましたが、
それでも、書くべきではないことがあるのを学びました。
毎日毎日書いたせいで容量がいっぱいになり、
ブログに移行したのは2年前ですが、
ここでも、より書いてはいけないこと、
書くべきではないことがあるのを知りました。

グーグルなどの検索機能が充実して、
ひっそり書いているつもりの私の日記が
検索結果の上位に来ることがあるのを知って、
検索されたくないときには、
より表記に工夫を凝らすようにしました。

こんなに地味な私の日記を楽しんで読んでくださる方が
いらっしゃるというのは、驚きです。
うれしい反面、悪意で書いたのではないのに、
受け取る人によってはとんでもないことに利用されることも
あるのだと知りました。
ハンドルネームでも書く以上は責任が生じるのだと、
狭量で気づかないことが多いのですが、
人さまを傷つけることがないように気をつけています。

すぐ横道にそれて申し訳ないですが(・ω・;A
本題、シソジュースです。
3年前の日記の引き写し。今回は半分の量で作りました。

  <シソジュースの作り方>

材料
 シソ・・300グラム
 クエン酸・・30グラム
 砂糖・・1.2~1.5キロ
 水・・2リットル

手順
 ・水を沸騰させて、シソを5分煮る
 ・シソを取り出す
 ・砂糖、クエン酸を加える。溶けたら出来上がり。

 あとは冷まして冷蔵庫保管、水や炭酸で割っていただく。
        
①このくらいのシソ・・料理の分をとりおいてもまだ残る。
『私の保存食ノート』に作り方はないかしら・・
これはお嫁入りまえに買った私のバイブル。
ずいぶん保存食を作りました。←リス体質なので、保存食好き
ないようなので、ネットで調べるとすぐにヒット。
今は便利だなあ。
②クエン酸、さんざん探しました。食材売り場ではなく、
薬局で発見。何の役にたつのだろ・・。
http://kuensan.jp/k2.htm
③できあがり♪ すてきなピンクのジュースになった♪ 
酸っぱくて美味しい♪

早速、今朝いただきました。
このところ毎朝水羊羹なのですが、
シソジュース寒天を作ったらどうだろう♪
とわくわくしています。

使ったあとのシソの葉は刻んでおかかと醤油で、
酒の肴にしてみました。

「ゴーギャン展」@国立近代美術館

2009-08-18 23:22:33 | 美術
冷夏でよく眠れるので助かっていますが、
みなさまはいかがお過ごしでしょうか。

夏休みの仕事の忙しさと週3のスパ通い(!)で
よろよろのノイバラです。
ずっと痛んでいる左足にスパの泡泡が心地よく、
仕事帰りに必ず寄るのですが、
体力がないので、癒されに行っているのか
疲れに行っているのか・・(・ω・;A

   * * * * *

カナダからご帰国中のF原さんと竹橋の近美「ゴーギャン展」に。
携帯をお持ちでないので不安だったのですが、
一目で分かり、無事に再会を果たしました。

昨年は7月からおみえだったので
万葉講座や歌会をご一緒したのですが、今年は8月のみ。
歌関係ではお目にかかれないので、
昨年お約束の美術観賞を果たしました。
昨年は日本の行き届いた細やかなサービスを
絶賛していらしたのですが、今年もいろいろと、
私には気付かない日本の良さを気付かせていただきました。

国立近代美術館本館「ゴーギャン展」

ゴーギャン(1848-1903)といえば、
フランスからタヒチに移り住んだ画家。
「ノアノア」の木版画連作26点、石膏像1点を含む
53点が展示されていました。



目玉は晩年の大作
「我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこへ行くのか」(1897-8)。

ゴーギャンについては常識程度にしか知らず、
まとめて間近で観るのは初めて。
まず、色の美しさに圧倒されました。
朱色と緑、青と黄色が対比して使われているのですが、
思ったよりシックな中間色も使われていて、複雑なハーモニーなのです。
これはごく初期の作品から見られる傾向で、彼の天性かもしれない。
形はフランスにいるころからすでに抽象化されていて、
単純化された形のリフレインが美しい。
色と形の音楽を目で聴く、という感じで心地よいのです。



この画はエヴァが楽園の林檎をもいでいるところを南国の花、
蛇を羽の生えたトカゲで表してあります。(羽のきれいなバーミリオン!)
登場する人物、人物のポーズ、動物、植物、事物には
思想がこめられていて、今日一日では
全部把握することはできませんでしたが、
繰り返し描かれる女性(エヴァ)、赤ん坊、黒い犬、馬、
すべてに意味があるらしいです。

知らなかったことですが、彼は幼少時6年間を
ペルーのリマに暮らしているのです。
いきなりフランスからタヒチへの道が開かれたわけではなくて、
後年水夫になったり、タヒチに惹かれる素地は
すでにそこにあったのだと思いました。

会場で一番好きな画をあげると言われたら、どの画がいいか。



私の「この一枚」は「ファア・イヘイヘ(タヒチ牧歌)」(1898)
楽園のエヴァと馬と人と黒犬。バックが金で装飾的、宗教画っぽい感じ。

F原さんの「この一枚」は「テ・パペ・ナヴェ・ナヴェ(おいしい水)」
(1898)(画像が見つかりませんでした)
エヴァと4人の登場人物。地面のバーミリオンが印象的、
水が画面の中央を横切り、暗い森、遠景の夕焼け空。

「この一枚」を中心に感想を話し合っていると、
通り過ぎてしまった画の違う面が見えてきて、とても楽しかった。
一人で見学することが多い私ですが、こういう観賞の仕方はいいと思いました。
F原さんは感覚がいい方で、「専門的なことは分からない」と
おっしゃりながらするどい指摘をなさるので、ぼんやりの私は
「ほおーー」と感心すること度々。
彼女の画の見方は、自分にひっかかりがあるところ、
惹かれるところを「何故」と他と対比しながら考えていくのですが、
これは私の歌集の読み方と似ていると思いました。

早かったせいか、ゆったりと見られる感じでしたが、
カナダの基準だと「大混雑」。
フジタのときの、黒山の人だかりに突進して人をかき分けて
見たことを話すと、仰天なさっていました。

お子さんのお迎えの時間が迫っているので、
常設展、工芸館は駆け足で見学。
工芸館のクラシックな建物も気に入っていただけたようで、嬉しい。

来年の再会をお約束して別れました。
短歌の「ボゥエン島通信」楽しみにしています。


ネルの1日

2009-08-17 21:44:01 | 
  私、ノイバラさんちの猫。
今度の9月6日で10歳になるの。


とちのき通りのとちのき動物病院で、
かごに入れられて遊んでいるところを、
ノイバラさんちの中学生のおにいちゃんに「この子」
と選ばれて、貰われてきたの。

おにいちゃんはとてもやさしくて、肩に乗せたり、
パーカーのフードに私を入れてあちこちに連れていってくれたり、
スーパーボール! 私も一緒にびょんびょん飛び跳ねたり、
猫じゃらし、ふわふわ毛糸玉で遊ばせてくれたの。

今は忙しくてあまりお家にいないのだけれど、
お膝に抱っこしてくれることがあって、
ネルはおにいちゃんのお膝が世界で一番好き。



ノイバラさんは以前にいた黒ちゃんが亡くなってから、
悲しくて何年も猫を飼わなかったのだけれど、
おにいちゃんが中学生になって、お部屋の壁やふすまに
ぼこぼこ穴を開けるようになったので、
おにいちゃんには猫が必要だと思ったのですって。

私が来てからおにいちゃんのお部屋の壁の穴は増えなくなって、
ノイバラ母さんにもやさしくなったんですって。
「ネルちゃんのおかげよ」ノイバラさんは私に
「ありがとう」って何回も言うの。
私には何のことだかよく分からないけれど、
やさしい言葉をもらってなでられるのは好きだから、
グルグル喉を鳴らしてお答えするの。


私は毎朝5時に起きるの。
まだノイバラさんたちが寝ているときには、
そっとベッドを降りて窓から外を眺めたり、
鳥の声を聞いているのだけれど、
我慢できなくて、「こんなに素敵なお天気よ!」
「こんなに素晴らしい1日が始まったのよ!」って
ノイバラさんのお腹にのっかったり、顔をなめたりして
教えてあげることもあるの。
起きたら、まずおトイレをしてから、お食事かしら。

おトイレ。
白いお砂がおしっこやウンチで固まるので、
ノイバラさんたちが片付けてお掃除してくれるの。
ウンチしたあとは嬉しくて、猛ダッシュで部屋中駆け回るの!
ニンゲンはそういうことがないみたいね。
何故かしら、とてもハッピーなのに!



朝ごはんはカリカリ(ドライタイプのキャットフード)と、
生のお魚やボイルしたエビ、オカカ。



お魚は豆アジのことが多いけれど、淡白な白身のお魚が好き。
ノイバラさんたちがお寿司のネタを分けてくれることがあって、
そのときはマグロも食べるけれど、赤身は苦手。
お肉には興味がないの。

あとは、時々おやつにポテトチップス、海苔、甘いパン、
トウモロコシ、蒸かし芋をもらうことがあるの。
甘いものは猫が食べると病気になるってノイバラさんは
食べさせてくれないのだけれど、餡のお菓子なんか実は大好き。
お饅頭なんかは、外側の皮しかくれないんだわ。
ポテトチップスは塩気を取って、海苔は火であぶって、
トウモロコシとお芋はお口でやわらかくしてくれるの。
おやつはお膝の上でゆっくりと食べさせてもらうのが好き。



お昼寝はいろいろなところでするわ。
夏は1階の廊下やベッドの上が多いかしら。
暑い寒いは猫に聞けっていうでしょう。
一番涼しいところ寝転ぶの。
秋冬春は屋根裏部屋に私のベッド(ダンボール箱)が
おいてあるので、そこが多いと思う。



夕方はダイニングのおにいちゃんの椅子の上で寝ることが多いかなあ。
私が寝てると、おにいちゃんは別のお椅子でご飯を食べてるみたい。



お風呂も好きで、湯舟に渡したお風呂の蓋に乗ってくつろいで
ノイバラさんに背中なでなでしてもらうの。
お尻ぽんぽんしてもらうのも好きで、ペタンと腹ばいになると、
「いい子ね」ってぽんぽんしてくれるの。
こちらを向いてほしいときは、仰向けになってバンザイすると
「かわいいわね~」「世界一だわ~」って褒めてくれるの。

夜はノイバラさんの足下で寝ているの。
時々、寝返りして私を蹴ることがあるのだけれど、
そういうときは爪を立てて教えてあげる。

ニンゲンの世界では10歳でも、猫時間では60歳くらいだから、
ノイバラさんより年上なのよ。
いろいろと教えてあげなきゃね。



上手く甘えてかわいがられる方法とか、
働かずして役に立って喜ばれる方法、
ニンゲンをコントロールする方法なんかをね。
ノイバラさんは馬鹿だから、コマネズミのように働いて
疲れた顔をしていたの。
綺麗にして幸せな顔をしていればいいのよ。
ネズミの真似なんかしちゃ駄目。
女性は猫の真似をして、優雅に生きなきゃ。ね。(^ω-)-☆

金のピアス

2009-08-13 23:00:04 | 夢と死
おととい二十夜、夢を見た。
金のピアスをプレゼントされたのだ。

私は耳にピアスの孔を開けていないので
「あれ、こまったな」と思ったのだけれど、
きらきらしてとても綺麗で、持っているだけで
幸せになりそうなピアスだった。
貰った相手は、昔の恋人だった。

不幸に終った恋だったのですっかり忘れていたのだが、
彼には装身具をついぞプレゼントされなかったので、
余計嬉しかったのかもしれない。
一緒に歩いたり、食事をしたような気もする。
世界中が光り輝くような夢だった。

――蜩の声で、眠りの淵に浮かび上がった。
谷を越えて鳴きあう蜩。
まどろむうちに、みんみん蝉の声にかわった。
それが朝鳥の囀りにかわり、また眠りに落ちた。
目覚めると5時50分だった。
目覚めてからも幸福感が続き、
仕事をしながら荒井由実の歌をくちづさんでいた。
「Good luck and Good bye」(1976)
ああ、そうだこの曲もよく聞いていたのだ。

30年前は2度と会えないのがあまりに辛くて泣き続けたが、
夢を見てから、一緒に歩いたり、おしゃべりしたり、
食事をしたりした時間を思い出して、本当に幸せだったと思った。
彼のほうが先に「駄目だ」と思って、サインを出していたのに
ぼんやりの私は気がつかなかったのだ。
ある日、突然電話を切られて驚いたが、
しかし2度と電話しようと思わなかったのは、
どこかで私もわかっていたのかもしれない。

甘えん坊の私は多分、怜悧な彼が怖かったのだ。
いつもいつも、私よりも魅力的な優れた女性が彼には合うと思い、
劣等感に打ちひしがれていた。

今ではもう、私の息子が、あの時のわたしたちの年齢だ。
私を解き放してくれてどうもありがとう。




夏の横浜

2009-08-10 15:01:55 | 美術
月末の宮崎での全国大会の打ち合わせのため、
Yちゃん、Rちゃん、T山さんと、横浜で待ち合わせ。
逗子にお住まいのRちゃんのご案内である。


3月10日横浜そごうで石山寺のお宝を観、
赤レンガ倉庫や海辺を歩いたので、ついこの間来たような気がする。
3月10日の日記

待ち合わせの前に、同僚Nさんお薦めの展示を観る。

前回は前を素通りだった横浜美術館である。

建物向かって左の前庭で、結婚式リハーサルが行われていた。

横浜美術館アートギャラリー 「柳宗理(やなぎそうり)展」
柳宗理は日本のプロダクトデザイナー。

公共デザイン、工業製品からインテリア、テーブルウェアまで
守備範囲は広い。
「バタフライスツール」「スタッキングスツール
(通称エレファントスツール)」(1954)などは
どなたでも見たことがあると思う。
私の生まれた1956のオート3輪、白磁シリーズ。
札幌冬季オリンピック聖火台(1970)
秤(1971)、バルブのハンドル(1979)、
いずれも「ああ! 見たことがある!」というものばかり。
シンプルな、人に添う形。
邪魔にならずあたりまえのようにあって使い易く美しい形。

宗理は1915(大正4年)、柳宗悦の長男として生まれる。
柳宗悦は白樺派の同人で、のちに民藝運動の指導者となった人。
宗理は駒場の日本民藝館の館長を2006年まで務める。

アートギャラリーでは彼のデザインによるインテリア、
カトラリー、食器、台所用品、工業製品などが展示され、
工場での製品化の映像が壁に映し出されていた。

このギャラリーが通路で二分されていて、
行ったり来たりするたびにチケットを見せなければならないのが煩雑。
展示の間だけでも、この通常の通路を塞ぐことはできないのだろうか。
¥900払って集中して観たい見学者に失礼。

しかし、展示自体はよく、ことに映像に感動した。
カトラリー、食器、台所用品が町工場で幾人もの手と目を経て
生産されるのを見てから展示作品を見ると、また違って見えるのだ。
オートメーションとは程遠い家内制手工業の丹念さをもって
ひとつひとつの作品(製品ではなく作品と呼びたくなる!)が
作られているのだった。
巷に溢れる主張の強いデザインに疲れてしまう私には、
この簡素でいて力強い用の美は大層好ましく思える。

見学が終るとダッシュで横浜駅に向かう(・ω・;A  ぜーはーぜーはー

皆と落ち合い、初のシーバスに乗って、みなとみらい地区へ。
(なんてことはない地上を走った分、海上からもとへ戻った(笑) )

ぷかり桟橋から海をのぞきこむとクラゲがたくさん浮いている。
Yちゃんはクラゲが好きらしくて、熱心に撮影している。

美味しいランチ♪美味しいランチ♪ とうきうきと歩く。

ワールドポーターズ「ラ サルサ」でメキシコ料理の食べ放題。

また写真を撮り忘れ、T山さんのビールのお供の唐揚げを撮る。
この唐揚げが美味しかったのだ♪
短歌のことをおしゃべりながらタコス、パスタ、サラダ、デザート。
なかなか宮崎のことを話せないので、スタバに移動。
宮崎初日別行動のT山さんはほったらかしにして、
海岸沿いのドライブのルートを話し合う。


赤レンガ倉庫ではこの日から砂浜やプールが設置され、
子どもたちとその家族でごった返している。
この砂、薄いベージュで小麦粉のようなパウダー状、
オーストラリアのブリスベンの砂だそうである。

アルフィーのコンサートのため海岸がふさがれていている。

またもや昨年の宮崎同様「海が見たい!」と私が叫んで、
橋を渡り、海沿いに象の鼻パーク、大桟橋、山下公園を歩く。

象の鼻パーク。大桟橋は象の鼻の形に似ているので、
象の鼻と呼ばれているらしく、その手前が公園になっている。
公園の敷石に描かれた画。

外国の大型客船も着く大桟橋をのぞむ。


大桟橋上のメンバー。

大桟橋からの眺望。帆船が夢のよう。

大桟橋からみなとみらいをのぞむ。


そのまま中華街を通り抜け( や~ん(´;ω;`) 通るだけ~)
石川町駅前の居酒屋で飲む。
1日中「暑い、ビール~」を繰り返していたT山さん、嬉しそう。

ハイボール二杯で酔っ払った私である。
*:..。o○☆*゜¨゜゜・*:..。o(●-ω-●)*:..。o○☆*゜¨゜゜・*:..。o○☆*゜¨゜゜・*:..。o○☆*゜¨゜

帰りの車中はひたすら眠る。
八王子駅に降りると、十七夜の月が真ん前に。
4日連続の朧月。

十六夜

2009-08-07 14:53:29 | 短歌
ここ3日ばかり朧月がきれいだった。


十三夜。旧暦6月14日

十五夜。旧暦6月16日

今夜は十六夜だ。

先日、えんの会で話題になった阿仏尼『十六夜日記』。
古典文学は高校で習ったきりなので、はなはだ心もとないのだが、
十六夜にちなんで、さわりを読んでみようと思った。
相続問題の解決のため、神無月16日に阿仏尼は京を発ち
鎌倉に向かった。
まずは旅立ちの由来が述べられ、東下りの旅日記、
鎌倉滞在記、戦勝祈願の長歌と続く。
東下り、道中の最初の部分。

<東下り>
「さのみ心よはくてもいかゞ。」とて、つれなくふりすてつ。
あはだぐち(*ママ)といふ所より車はかへしつ。
ほどなくあふさかのせきこゆるほどに、

さだめなき命はしらぬ旅なれど又あふ坂とたのめてぞ行

のぢといふ所は、こしかた行さき人もみえず。
日は暮かゝりていと物がなしとおもふに、時雨さへうちそゝぐ。

うちしぐれ古郷思ふ袖ぬれて行先遠き野路の篠原

「こよひはかゞみといふ所につくべし。」とさだめつれど、
くれはてゝゆきつかず。もり山といふ所にとゞまりぬ。
こゝにも時雨なほしたひきにけり。

いとゞ猶袖ぬらせとや宿りけんまなく時雨のもる山にしも

けふは十六日の夜なりけり。いとくるしくてふしぬ。
いまだ月のひかりかすかにのこりたるあけぼのに、
もり山をいでてゆく。
やす川わたるほど、さきだちて行たび人のこまの
あしおとばかりさやかにて、きりいとふかし。

旅人はみなもろともにあさたちて駒打わたすやすの川霧

――まず「あふ坂」の関で1首、夕暮れの時雨降る野路で1首、
「かがみ」まで行こうとしたがたどりつかず、
「もり山」で一泊することになり1首、
まだ月の残る明け方に「もり山」を発ち、「やす川」を渡り1首、
でよいのかしら?
20日、尾張の国、鳴海の潟で都鳥や八橋を詠んだ歌は有名らしい。――

「すみだ川のわたりにこそあり。」と聞しかど、
みやこどりといふ鳥のはしとあしとあかきは、此うらにもありけり。

こととはむ觜と足とはあかざりし我住かたの都鳥かも

二むら山をこえて行に、山も野もいととほくて、日もくれはてぬ。

はる\〃/と二村山を行過て猶すゑたどる野べの夕やみ

「八橋にとゞまらん。」といふ。くらさにはしもみえずなりぬ。

さゝかにのくもであやうき八橋を夕ぐれかけて渡りぬる哉
 
――29日に鎌倉に着き、この東下りの旅は終わる。
60歳で13日かけて京から鎌倉まで・・すごいです。(・ω・;A
このあと鎌倉滞在。――

<鎌倉滞在記>
あづまにてすむ所は、月かげのやつ(*月影の谷)とぞいふなる。
浦近き山もとにて、風いとあらし。山寺〔極樂寺〕のかたはらなれば、
のどかにすごくて、浪の音松のかぜたえず。
都のおとづれは、いつしかおぼつかなきほどにしも、
うつの山にてゆきあひたりし山ぶしのたよりに
ことづけ申たりし人の御許より、たしかなるたよりにつけて、
ありし御返しと覺しくて、

旅衣涙をそへてうつの山しぐれぬひまもさぞしぐるらん
ゆくりなくあくがれ出し十六夜の月やおくれぬ形見成べき

「都をいでしことは、神無月十六日なりしかば、
いざよふ月をおぼしめしわすれざりけるにや。」と、
いとやさしくあはれにて、たゞ此返事ばかりをぞ又きこゆ。

めぐりあふ末をぞ頼むゆくりなく空にうかれし十六夜の月

――ふむふむ、鎌倉は極楽寺近くの月影の谷にお住まいだったと。
え~と古典は苦手だったからなあ。(・ω・;A
先の東下りの旅の途中25日、宇津の山で山伏に
ことづけた手紙のお返事と歌2首がきたので、
そのお返しの歌1首を作られたということでいいのかな。
16日の出立だったので、「あくがれ出でし」十六夜の月を詠っているのか!
十六夜の月は阿仏尼のことかな。
25日の宇津の山のくだりを確かめてみると、
上記の返歌もさすが・・と思えるのだ。
25日の宇津の山のところ。――

うつの山こゆるほどにしも、あざりのみしりたる山ぶしゆきあひたり。
「夢にも人を」(*「夢にも人にあはぬなりけり」)など、
むかしをわざとまねびたらん心地して、いとめづらかに、
をかしくもあはれにもやさしくもおぼゆ。
「いそぐ道なり。」といへば、文もあまたはえかゝず。
たゞやむごとなきところひとつにぞ、おとづれきこゆ。

我心うつゝともなしうつの山夢にも遠き昔こふとて
つたかえでしぐれぬひまもうつの山涙に袖の色ぞこがるゝ

――「しぐれ、うつの山、涙、袖」にこたえて
「旅衣、涙、うつの山、しぐれ」。
心情的にも「大変だね・・」と答えているし。
さらにあくがれ出た十六夜の月の1首を足して発展させ、
それにまた阿仏尼がめぐりあいたいですと十六夜の月の歌で返す。
「末」とは山の頂のことで阿仏尼の歌の相手なのだろうか。
またあなたに会う日を頼みとしています・・でいいのかしら。
滞在中、ひんぱんに都人とも文の交換をしていたらしい。――

卯月のはじめつかた、たよりあれば、又おなじ人の御もとへ、
こぞのはるなつのこひしさなどかきて、

見し世こそかはらざるらめ暮はてし春より夏にうつる梢も
夏衣はやたちかへて都人今やまつらん山ほとゝぎす

そのかへし、又あり。

草も木もこぞみしまゝにかはらねど有しにもにぬ心ちのみして

さてほとゝぎすの御たづねこそ。

人よりも心つくして郭公たゞ一聲をけふぞ聞つる

さねかたの中將の五月まで時鳥きかで、みちのくにより、
〔續後撰〕「都にはきゝふるすらん郭公せきのこなたの身こそつらけれ」
とかや申されたる事の候なる。そのためしとおもひいでられて。
此文こそことにやさしく。
など、かきておこせ給へり。さるほどに、う月のすゑになりければ、
ほとゝぎすのはつねほのかにもおもひたえたり。
人づてに聞ば、「ひきのやつ(*比企谷)といふ所にあまた聲なきけるを、
人きゝたり。」などいふをきゝて、

忍びねはひきのやつなる郭公雲ゐにたかくいつかなのらん

――ホトトギスの声についての歌の応酬は、万葉集巻18、
家持らの宴席での歌を思い起こさせる。
卯月の初め、都と東の地でのホトトギスの初音の時間差。
「もう山ホトトギスは鳴きましたか?」
「耳を澄ませたら今日一声が聞こえましたよ。」
卯月の終りには鎌倉比企の谷で
たくさん鳴いているのだと聞いてまた歌1首。――

ああ、むずかしかった(・ω・;A
慣れないことで、もうへとへとです。
全部読解できてないけど、暗号解読のような
楽しいひとときでした♪

さて、お買い物に行ってこようかな♪

memo
『十六夜日記』は鎌倉中期、弘安三年(1280)ごろ成立。
阿仏尼は夫藤原為家の死後、弘安二年(1279)、
遺産相続の争点となった実子為相の所領確保を鎌倉幕府へ
訴えに下向したが、訴訟の相手の嫡男為氏ともども鎌倉で死去。


夏の過ごし方

2009-08-06 22:48:55 | 日常
毎日どたばた走り回っているので、
落ち着いて考える暇もないのだが、
同僚との会話で思い出したことがある。

夏休みの過ごし方として、
不景気で海外旅行が減ったということ、
また国内旅行も無理にでかけずに、
家で過ごすことが多くなったこと、
でかけても近場ですませることになったということだ。
家族連れのお客さまが多い私の職場も影響を受けていると思う。
おかげさまで、たくさんのご家族連れがいらして下さるのだが、
どうだろうか?
楽しんでいただけているだろうか?

   * * *

私の父は忙しい人だったが、私が小学校高学年のとき、
1年ほど失業していたことがある。
ピアノを教えながら家計を支えた母は大変だったと思うが、
子供の私は父がずっと家にいてくれてうれしかった。

私の記憶にある家の中の父の姿の記憶は、
おそらくこの1年のものだと思う。

60年代後半、経済の高度成長が始まった時期だが、
夏休み、冷房もなかった家の一番涼しい玄関に
家族4人が集まって、ひたすらゲームをして遊んだ。
今のようにテレビゲームなどはもちろんなくて、
ダイアモンドゲームなど数種類のゲームが入った
ゲーム盤だったと思う。
楽しそうだった若い父の笑い声や口調を今でも思い出すのだ。
妹はまだ幼稚園だったから、
ゲームが一緒にできたかどうか分からないのだが、
とにかく傍らにいたと思う。
1年の失業がなければ、一緒に過ごすことのなかった夏休み。
活動的だった父は、家族を連れて海や山や
あちこちにでかけるのが好きだったが、
どこにもでかけなかったあの夏休みの幸せはどうだろう。

仕事を離れた父はリラックスしていて、
数年後、学生運動に連動して自由を求め、
裁判にまで発展したN大生産工学部の事件のことなど、
想像もしていなかったに違いない。

そもそも失業したのだって、W大が1年しか許さない留学を
2年勉強したいから自費で延長して、
大学側と喧嘩してやめたのかやめさせられたのかという
呆れた理由なのだ。
現在だって1年と決められているのだから、
父の抗議は何の役にも立たなかったわけだ。
そののち学生の味方をしておこしたN大との裁判も敗訴して、
一体大学の何が変わったのか。

正しいと思うことを押し通して、父は過労から腎臓を患った。
父が職場を変わることで引越しを余儀なくされ、
受験期の私は新しい土地に馴染めず、情緒不安定となって、
暗い青春を送った。

そうだ、あの引越しも夏だった。

父はいたのだろうか、あまり記憶にはなくて、
父の盟友N田さんがお手伝いをしてくれたような気がする。
母が風呂桶に水を張り、冷やしてくれた西瓜を
私は居間までかかえて運ぶ途中で落として割ってしまった。
鈍い音がして、足下でぐしゃぐしゃになった。
N田さんが「いいよ、いいよ、切る手間が省けたよ」と
なぐさめてくださったが、割れた西瓜は不味くて、
とても悲しかった。

* * *

この盟友N田さんが不思議な方で、
この引越しのときも助っ人にやってきてくださったが、
父の具合が悪くなると、こちらから何も知らせなくても、
向こうから連絡を下さる方なのだ。
父の最期の入院のときも、亡くなったときも、
電話をかけてきて、飛んできてくださった。
どうしてわかったのだろう?
「いや、なんとなく」とおっしゃるのだが、
実際ご本人にすれば、本当に何となく電話しなくては
ならない気持ちになられたのだろう。

わかるかわからないかわからなかったが、
棺の父に「よかったわね、N田先生がいらしたわよ」と声をかけた。

* * *

夏休みのことから、連想ゲームのように思い出してしまった。

こどもたちへ。

これからつらいことがあっても、遠い日の夏の思い出が
胸の奥でかがやいていますように!

誰にも愛されない惨めな気持ちになったとき、
暗がりで手を握ってくれる思い出となりますように!

はじめまして

2009-08-01 22:14:53 | 日常

こんばんは、ノイバラです。(´・ω・`)
はじめまして。
以前からのお知り合いの方も、こちらで初めてお目にかかる方も、
どうぞよろしくお願いいたします。

以前の住所
ノイバラ山荘
2007.7~2009.8の日記があります。

  * * * * * 

今夜はH市の花火大会。
仕事から帰ってダッシュで夕飯をすませ、丘の公園に上ると、
すでに先客が十数人。
木々の間から花火が見える。






花火の上がるグラウンドからは1キロほど離れているので、
若干遠いのだが、昼間忙しく走り回ったので、歩くには足が痛い。

遠いせいか、なかなかタイミングが合わず、撮影は難しい。
携帯でも撮ってみたが、さらにのろくさしている上に
「保存」なんだの手順が多く、もっと難しい。

花火なんか見にきたのは、もう久しぶりで、
妹とそれぞれの幼い息子の手をひき、
グラウンドまで歩いたのを思い出す。

ずんとお腹に響く音は心地よかったが、
頭上に上がる花火をずっと仰向けにながめているのは疲れるし、
じきに子供たちは退屈してしまって、
帰りにはまだ生きていた父に車で迎えに来てもらった。
もう20年も前のことだ。

近いと返ってあまり見に行かないものだ。
35年前に引っ越してきたときにはもう花火大会はあった。
一時期、開催が秋に変更になったが、
さすがに夜の浴衣が寒そうで、また8月第一土曜日に戻った。

妹と見てから、次に見たのは、
父が亡くなって実家のH市に越してきた10年前だろうか。
夫と息子と3人で出かけたのだが、途中で夫とはぐれて2人で帰ってきた。
まだ携帯電話をもっていなかった時代だ。

そののちは仕事帰りの車からながめたり、
夕飯を食べながら二階の納戸の小さな窓からちらちらと見たりしたが、
ゆっくり見にいく余裕はなかった。

H市の花火はあまりいろいろな仕掛けはなくて、
テレビで見るような絢爛なものではないけれど、
隣に座った中学生か高校生か、
仲良し男子のおしゃべりを聞きながら見ていると、
単純な花火もいいものだと思った。