決して賢くはないが、その愚直な生き様で戦国時代を生き延びた男、それが仙石秀久だ。
始めてその名を知ったのは、週刊ヤング・マガジン誌で連載された「センゴク」を読んだ時だ。まったく知らなかった。あまり日本史には詳しくないが、それでも戦国時代の主要な大名や武将の名ぐらいは知っていた。
だが仙石秀久の名はまったく知らなかった。秀吉の下で一時は10万石の大名とまで昇進したが、大失敗をしでかして領地没収。古参ゆえに死罪は免れたが、高野山に追いやられた。しかし、小田原攻めで功を挙げて復活、その仲介をした家康の旗下につき、秀忠のお守役をつとめ江戸時代まで生き残った武将である。
正直、秀吉にずいぶんと贔屓された感はある。それもそのはずで、蜂須賀小六など野武士や農民出身者が主体であった秀吉の傘下に初めて入った由緒正しき武家が仙石秀久だからだ。
しかし秀久が秀吉に可愛がられたのは、彼が単純にして純朴な武者であったからだと思われる。家柄や格式を重んじる様な融通の利かない武人であったら、むしろ秀吉配下の中で浮いてしまったと思う。しかし、その猪武者ぶり故に秀吉傘下の野武士たちとも馴染み、武功を上げて最も出世の速い武者が秀久であった。その意味で、たたき上げの武者だとも云える。
そんな秀久だが、九州攻めでの失態はさすがに許しがたかったのだろう。領地没収で済んだのがむしろ軽く思えるほどである。その後4年間高野山での貧乏暮らしだが、秀吉を恨む気持ちはなかったようだ。
だからこそ失地回復の絶好の機会として小田原攻めに馳せ参じた。実はこの時点では、秀吉の許しは得ていない。知己のあった家康に頼み込んで、厳しい攻め口を落として実績を挙げて秀吉に再会している。
既に覇者として君臨していた秀吉ではあるが、この古くからの部下の猪武者ぶりには呆れたらしい。だが、しっかりと褒美を取らせている。信長旗下のもとで苦楽を共にしてきた古参の秀久には、どこか憎めない愚直さがあったのだろう。
実はこの時期、やはり失敗して追われた尾藤友宣も小田原に参上して、参戦を願い出ているが、功なくして現れた尾藤に激怒した秀吉は、その場で処刑している。古参ゆえに秀吉の気性を知っていた秀久のほうが生きる知恵を持っていたのだろう。
後に家康の元に馳せ参じる秀久ではあるが、秀吉の生きている間は決して裏切ることはなかった。ただ、石田三成ら文官派とは肌合いが合わないと感じたようで、もっぱら築城普請など地味な役割に甘んじている。ぶっちゃけ距離を置いていると判じて良いと思う。
ちなみに家康とどこで知己を得たのか記録にはないのだが、表題の作品では三方が原の戦いで武田に敗れて敗走した時に信頼を得たとしている。若き日の家康は武田、北条といった強敵に苦しんでおり、信長がしばしば応援を寄こしているので、この可能性は高いと思う。
私見だが、家康の部下たちはどちらかといえば武辺一辺倒の傾向が強い。だからこそ猪武者の秀久とは馴染み易かったと思う。仙石秀久以外では、藤堂高虎も織田、羽柴側から家康へ鞍替えしているが、彼も傷だらけの巨躯で先陣を切る武者である。秀久とも気が合ったのだと思う。
秀久、高虎ともに徳川秀忠を支えた外様であることも興味深い。家康はあまり秀忠を高く買ってはいなかったようなので、信頼できる秀久、高虎を配置したのだと私は想像している。
戦国時代を生き延びるのは難しい。賢いだけでもダメだし、強いだけでもダメだ。あれだけ失敗をしておきながら、生き抜いた仙石秀久という武将を取り上げたこの作品もようやく完結しました。見事な作品だと思います。
最後に一番記憶に残ったのは、主人公である秀久ではなく、その主である豊臣秀吉の最後の場面です。晩年になると秀吉の脳裏に浮かぶは、老醜の惨めさを感じさせた生涯。だが死に際の秀吉の目に映ったのは、自分を支えてきた部下たちの姿であり、最後に一番可愛がってくれた信長の背中に気が付き、姿勢を正す若き日の秀吉の場面は、この作品で一番印象に残った場面でした。
大作ではありますが、一度は目に通して欲しい傑作です。