プロレス史に残る惨劇の一つに、耳そぎ事件がある。
ある試合で、トップロープから飛んで、リング上で倒れている相手レスラーの胸板に膝を落とすつもりであった。必殺技ニー・ドロップである。決まれば、その試合の勝利は確定しただろう。
しかし、リングに飛び降りて、膝を相手に叩きつけたはずなのに、異様な感覚に違和感を感じた。本来なら湧くはずの観客も静まり返っているではないか。
立ち上がり相手を見下ろすと、リング上をのた打ち回っている。頭の横側を押さえているが、血が吹き出しているのが分る。リングを見渡すと、血まみれのリングの上にピクピクと動く肉片一つ。
よく見るとそれは耳であった。それを冷酷に見下ろし、平然とリングを降りた男。それが1960年代から70年代にかけて活躍したアメリカのプロレスラーであるキラー・コワルスキーだ。
長身だが、骨ばった身体つきで、なによりも酷薄そうな冷たい表情が怖い。骨ばっているのは、「耳そぎ事件」以来、肉を食べることができなくなり、菜食主義者となったためだと聞かされていた。
ちゃちな反則こそやらなかったが、その冷酷な戦いぶりは戦慄に値する。彼がトップロープに上り、必殺のニー・ドロップの体勢に入ると、観客は息を呑んでその行方を見守ったものだ。
もしかしたら目の前で再びあの惨劇が・・・そんな場面を脳裏に描いた観客は少なくなかったと思う。絵になるプロレスラーであったことは間違いない。
実を言えば、耳そぎ事件は突発的な事故であったそうだ。トップロープから飛び降りて、必殺のニー(膝)をリング上に横たわる相手の胸板に叩きつけるつもりであった。
ところが相手がフラフラと上半身を起したため、コワルスキーのリングシューズの紐の輪部分が耳にひっかかり、紐の輪が相手の耳をそぎ落としてしまったそうだ。
完全な事故であり、しっかりニー・ドロップを胸で受け止めなかった相手レスラーのミスでもある。ちなみに、元々菜食主義者であったそうで、耳そぎ事件とは無関係だそうだ。
まァ、こんな話もプロレス界ではよくあること。ただ、あまりに耳そぎ事件の印象が強く、彼の本来の魅力が伝わらないのが残念。
長身で痩身ではあったが、実はプロレス界でも屈指の怪力レスラーで、150キロを超える相手を平然と投げ捨てた実力派でもある。よく対戦したジャイアント馬場が、コワルスキーの怪力には散々苦しめられたと嘆いている。
しかも、冷戦沈着に戦い、表情を変えずに淡々と相手を狙う様子は、ただそれだけで絵になる男でもあった。目をくわっと見開き、じりじりと迫ってくる姿は、子供心にも怖いと感じたものだった。
もちろん、その怖さの裏には、あの耳そぎ事件があったのは間違いない。後年、引退したプロレスラーたちが、コワルスキーの試合運びの上手さを褒めていた。わざわざ観客が怖がるように、スローな動きを強調していたが、要所要所では素早く動き、怪力を突然使って試合を有利に運ぶ名人であったそうだ。
当時の私は、そんなことにはまったく気がつかず、この不気味なプロレスラーに勝手な妄想を抱いて楽しんでいた。今ならもう少し、そのレスリングワークを堪能できると思うが、ビデオさえ碌に残っていない。
それがちょっと残念。もう一度、じっくり観てみたいレスラーだと思っています。