弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億仏 発大清浄願 妙法蓮華経「観世音菩薩普門品」偈より
ぐぜいじんにょかい りゃっこうふしぎ じたせんのくぶつ ほつだいしょうじょうがん
(観世音菩薩の)弘誓の深きことは海の如くにあれば、(たとい)劫を歴(ふ)るとも思議せられじ。多く千億の仏に侍(つか)えつつ、大いなる清浄の願を発(おこ)したり。
観世音菩薩が衆生の苦しみを救済したいと誓われたその弘誓(ぐぜい)の深いことは海のようでありましたので、これを思い量(はか)ろうとしてたとい劫という時間を過ごしてもそれでも行き着くことではありません。なにしろ、観世音菩薩はそれまでに(=誓いを立てるまでに)千億の数の仏たちにお仕えをして、そこでこの(衆生救済という)大いなる清浄の願を発(おこ)されたのですから。(さぶろう用の解釈文)
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一の仏さまにお仕えするのに1劫はかかってしまうので、千億の仏さま方にお仕えするには千劫億劫がかかってしまいます。その間ずっと衆生を救済しようという願だけを発(おこ)し続けて来られたのですから、その願はまことに清浄を深めた願であったのです。
弘誓(ぐぜい)とは「弘く一切衆生を済度して仏果を得させようとする仏や菩薩の広大無辺な誓願」のことと電子辞書が教えています。
具体的には、1,衆生無辺誓願度(生きとし生ける者がいかに多くとも誓って済度せんことを願う)2,煩悩無尽誓願断(生きとし生ける者の煩悩がいかに果てなくとも誓って断たしめんと願う)3,法門無量誓願知(仏の教えが学び尽くせないほど多くとも誓って知らしめんと願う)4,仏道無上誓願成(仏に成る道がどれほどの高みにあろうとも誓って成らしめんと願う)だとされています。衆生とは人間ばかりではありません。獣も魚も鳥も昆虫も黴菌も、さらには植物類も含まれています。
願うだけ誓うだけでは終わっていません。実行実践が伴っています。大乗仏教はこの実践ということを非情に大事にしています。
この後こう続きます。
聞名及見身(もんみょうぎゅうけんしん) 心念不空過(しんねんふくうか) 能滅諸有苦(のうめつしょうく)
観世音菩薩の名前を聞いて称えたり或いはお姿を拝したりしてこころに念じていればそれだけで観世音菩薩の救済の実行があって空しく過ごしてしまうということがなく、たちどころに抱えていた諸々の苦しみから逃れ出ることができるのです。
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さぶろうは今朝はここを思っています。そしてそれをうっすら思議しただけでもう感動を覚えています。いいところへさぶろうを導いて来てくださいました。
経典を読むということはここまでその威力が届いて来ているということです。観世音菩薩の救済の手が及んできているということです。ふたりの関わり、「仏とわたし」という関与ができているのです。遙かな遙かな過去にもわたしが思われていて、いままたわたしが思われています。
これをこころに思っているだけでもう成立しているのです。そこに救済が立ち上がっているのです。心念不空過とはそういうことです。絵空事にはしないぞ、実行が成ったぞというこれはこの経典を説き起こしている釈迦牟尼仏と観世音菩薩の声明文です。