今年の干し柿作りは失敗だった。いっこうに冷え込みが加わらないので、表面に黴が生えてしまったのだ。黒ずんでいる。これじゃ、食べてみる気にはならない。お天気情報によれば冬の底冷え、厳寒は次の連休明けになるらしい。そうなったところで、やり直しだ。あたたかいままだと干した渋柿に蝿が集まって、これはおいしいご馳走とばかりに、やたらたかっても来る。お正月用に間に合うかどうか。干し柿作りの農家はさぞかしお困りだろう。店頭ではいずれ高値を張るだろう。
さぶろうは人を寄せ付けない。そういうところがある。年を取るにつれてそれが昂じている。いいことではない。決して。人間はやわらかくなるべきだ。そこへ向かうべきだ。人格が加わって丸くやわらかくあたたかくなるべきだ。それをそうしない。そうしないのは、加わるべき人格品格が加わってこなかったからだろう。これは、さぶろうを守って助けて来てくれた多くの善意に背いていることになる。それを思って、これを恥じる。恥じるけれども、身心の何処にも柔和さが浮かび上がってこない。「さぶろうのところへ行けばくつろげる、ほっとする、また行ってみたい」といった安堵を人に与えられない。その逆だ。突っ慳貪で寄りつく島がない。人を弾いて弾いてしまう。どうしたことか。畢竟彼には自己信頼というものがないのだ。身についていないのだ。これで人を安心させることができない。まだ以て、まず、己の小さな安心が優先している。懐(ふところ)底の浅い男だ。年を取っても深まらない。
思っても思ってもうるわしき女性は尋ねて来てはくれないけれど、この時期、さぶろうを尋ねて来てくれる貴人もある。よほどの変わり者だろう。山から下りてきたジョウビタキだ。しかも紋付きは織りを羽織ってのお出ましだ。仰々しい。何事かと思ってしまう。だが、至ってお人好し。ぎくしゃくした様子はない。ほんの数メートル先の、さぶろうの書斎の窓辺の、セルロイドの支え棒のとっぺんさきに止まって、こちらを覗っている。窓の内の住人のご機嫌を伺っている。さぶろうは、おどけて「おらんおらんばあ」をして見せる。彼女も尻尾を高く低くしてこれに応えておどける。しばらくいて媚びを売る。何度も来る。何度もそうする。「何かご用?」と言いたくなるほどだ。去年もこうだった。同じ鳥なのかどうかは分からない。よほど人間に興味があると見える。だが、老醜を蓄えたさぶろうを人間の代表と思うなら、それは間違いだ。NHK朝のドラマ「朝が来た」のヒロインのよう美人のところへ通い詰めに通うことをお勧めする。さぶろうは人間の形(なり)はしてはいるけれども、あくまでも変種だ。
「静夜思」 李白
牀前看月光
疑是地上霜
擧頭望山月
低頭思故郷
*
牀前月光を看る
疑うらくは是地上の霜かと
頭(こうべ)を挙げて山月を望み
頭を低(た)れて故郷を思う
*
わが枕もとに差し込んでいるのは月光、ここを辿るとわが思いも窓の外に出る。
一面がうっすら白くなっていて、おやおや、もう霜が降っているのかと眼が疑ってしまった。
静かな山にかかった静かな月の燦々たるかがやきを仰いで、しばらく頭(こうべ)を挙げていたら
いつのまにか、なつかしい故郷のことが思われて自然と頭が低(た)れてしまったことだった。
(いい加減のさぶろう訳)
*
白い霜が降るころの白い月の山。ベッドサイドは寒い。さぶろうだったらやわらかな女性をやわらかくして抱きたいところだが、李白先生は故郷を抱いてあたたまろうとしている。そこが違う。桁違いに違う。このとき、李白先生はわずかに31才。この楽府題の詩はすでにおおやけの曲があったものに詩をつけたものだ。メロデイーはどんなものだったのだろう。ともかく朗々としてそこで歌われていたことになる。
*
詩人はいい。こうして詩の中の山月をわが膳に据えて、そこに己の人生という酒を酌み、静かに酌み交わし、故郷をもおいしく味わうことができる。
吹くからに 秋の草木(くさき)の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ
文屋康秀 万葉集 22番
いまし晩秋。山から風が吹き下ろしてくる頃になるとたちまちにして野の草木が萎れてしまうものだ。なるほどこれで山から吹き下ろす山風を、すっかり荒らしてしまうという意味を込めて嵐と呼んだのだなあ。この頃の秋風の音を聞いているとそれが納得されてくるよ。
歌には余韻がある。この歌にも余韻がある。
あとに残ったのは殺伐とした冬の景色だ。人の世はこれから厳寒の冬。春が訪れてくるまでしばし、さみしいものであろう。あなたが訪れて来ればそうはならないものだが・・・
作者文屋康秀は六歌仙の一人。この歌を誰に贈ったのであろう。小野小町あたりだろうか。
「・・・からに」は、「・・・とすぐに」
「むべ」は「宜なるかな」の「むべ」。なるほどと納得がいく。
*
さぶろうの住んでいるところではまだ山風の嵐は吹いていない。草木も萎れるほどにはなっていない。庭のモミジはどうしたことかまだ紅葉していない。畑の大根白菜は青々として隆盛だ。雑草のホトケノザが畑一面に互いに絡み合ってしなやかに伸びている。山鳥が庭に下りてきて騒がしい。
でも、楽しんだ。大谷投手の快速球を楽しんだ。7回までに奪った三振が11。21のアウトのうちの11をアウトにして空振りさせたのだった。最後の9回のマウンドに則本投手が上がったところでテレビを消してしまったから、そこでどんなドラマが展開されたのかは分からない。だから、さぶろうはいいところばっかりを見て過ごしたことになる。だから、すっかり安心をして、この後、一夜の快眠をもらったのだ。昨夜の試合は8回で終わっていた、そう思うことにしよう。うん、それがいい。勝利投手は日本の大谷投手だった。剛速球が冴え渡って、あわやノーヒットノーランになるところだった。彼と仲間たちを褒めて讃える。さぶろうの日記にはそう記しておこう。
東京ドームで行われた世界野球プレミアム準決勝戦。侍ジャパンまさかの逆転負け。大谷が7回を投げ抜き、11の奪三振で無失点、許したヒットはわずかの1、フォークボール1。フォアボールなし。160キロの快速球に相手チームは翻弄されたままだった。あざやかなベストピッチだった。続く8回は則本が継投してこれも3人で切って取った。3対0。後は9回を残すのみ。もういいだろう。次は決勝戦を楽しめばいいだけだ。夜の10時を過ぎた。お風呂に入ってそろそろ寝よう。さぶろうはテレビの実況中継を閉じた。そして次の朝、ニュースを見た。9回になって韓国に逆転を許していた。こんなことがあるのか。小久保監督がうなだれていた。決勝戦に進んだのは韓国。韓国の人たちがおおよろこびをしただろう。