案外、凝り性。歯磨きの回数がはんぱじゃない。息が臭いと磨く。口が臭いと磨く。食後に磨く。舌が乾くと磨く。寝る前。歯ブラシなんてすぐに擦り切れてしまうよ。歯磨き粉もたくさんじゃないと気が済まない。この田子作は神経質なんだなあ、こう見えて。
働いた。2時間半畑に出て草取りをした。それからオクラ、ピーナッツ、西瓜、カシウリ、キュウリ、ニガウリに肥料を撒いてあげた。汗を掻いた。びしょびしょになった。ふふ。ふふふ。いい気持ちだ。どうしてなんだろう? 汗を掻くなんて、どう考えても普通はいい気持ちにならないはずなんだけど。
わたしは一日の内のしばしば、わたしの大きな一部である肉体の、そのわたしの求める所を求めていることがあります。それを求めているときには肉体が大きなわたしという顔をしています。欲望がぎらぎらしています。荒野を行く狼のようです。狼の背中には感情体が乗って手綱を握っています。その一連の荒々しい行動にふっと気がつきます。我に返ります。わたしの全体を取り戻します。気がつくのはもう一部分のこころというわたしです。その後ろには精神というわたしが控えています。その奥には魂、その更に奥には阿頼耶識という根本意識体が連なっています。わたしは多面体です。多重構造をしています。各部分の突出をこうして互いに牽制し合ってもいるのです。わたしは今度はこころの求めに応じて動き出します。するとこころがわたしの大きな一部を形成します。こころは青空が大好きなので空に同化して広がって行きます。午前中は荒野を行く狼であったのに、今のわたし、こころのわたしはゆったりしています。落ち着きを得ています。これから肉体と一緒に外に出ます。数日来、日課にしている草取りに掛かります。
おはよ。といったってもうお昼が近いよ。だね。日はすっかり高くなっている。白い雲が青い空に広がってぎらぎら光っている。夏子の夏。夏雄の夏。夏子と夏雄は夏が来ていっそう元気を増しているだろう。砂浜に寝転んだりリュックを背負ってトレッキングを出掛けていたり。というのに、僕はこの通り。隠者を決め込んで籠もっている。しょうがないなあ。他の選択肢が見付からないんだ。とかなんとか諦めを付けてごろり。寝転んで読書。
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お。一天掻き曇ったぞ。怪しい風が吹き出して来た。どうしたんだろう。ややや。雷さまのご出陣じゃないか。僕は跳ね起きた。
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人間、諦めが肝心なんだけど、諦めているっていうのはなんか空しくもあるんだよなあ。少なくとも活動的行動的じゃない。意欲を持つ若者のすることじゃない。いいか、とっくに若者ではないんだから。やりたいことを考える。そしてその後で必ず、「でもダメか。道が塞がっているじゃないか」と思う。そう思うとその通りで扉は硬く閉まっている。押しても引いてもびくともしない。やっぱりここまでだ、と思う。意欲の風雨は鎮められる。やりたいことしたいことを、こうして見送ってばかりだった。
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夏子と夏雄にはとうとうなれなかった。彼らだけがあるべき人生のドラマを演じている。気が合った二人は生き生きとした表情をして合歓の木の下に立つ。やがて二人は抱擁をする。汗が二人の背中を流れて下る。
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諦めて諦めて諦め上手になった蜘蛛なのに、奴はまだ軒下に巣を張っている。今朝も巣を揺らしているのは夏風だけだ。中央に張り付いた黒い手足がやけにみすぼらしい。