<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

仏画展観賞をしに福岡へ

2016年07月21日 17時32分56秒 | Weblog

福岡までぶらりと仏画展を見に行って来た。新しく描かれた仏画ばかりである。寺院の本尊として崇められたような古い仏画類は一点もなかった。

観音菩薩、勢至菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、弥勒菩薩などの様々な菩薩、加えて釈迦如来、阿弥陀如来などの如来が、掛け軸や横額、縦額に納まって、会場の空間を圧倒していた。

仏画にはこの通り当然仏が描かれている。それが全部だ。

仏は本来、信仰の対象である。だから、仏画は芸術美術の領域を超えて訴えて来る。迫って来る。そういうところがある。

美しく描かれているというだけでもいいのかもしれないが、仏は見る者に仏界の真理を指し示しているので、見入っているとやがて感歎と頷きと讃仰が出るはずである。

こうなると美術愛好家の集う展覧会に来ているという余裕がなくなってしまうであろう。

仏画の中の菩薩や仏は、月を指さしている指先に過ぎない。

指先を見て月を見ないのなら、本末転倒の誹りを免れ得ないだろう。

今日のわたしは指だけを見て指が指さしているものが見えなかったかもしれない。

余談だが、会場の福岡センタービルは護国神社の近くにあった。神社の鳥居が森に隠れて中半見えない。街の中心部にこれだけの深い静かな森があるとは! 驚きだった。次は自転車を積んで行こう。ゆっくり周辺のサイクリングをしてみたい。

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僕が此処に居なくなったら

2016年07月21日 09時28分12秒 | Weblog

僕が此処にいなくなったら、僕は此処の風景を見ることはできない。でも確実に僕は此処を離れていくことになる。でも今日現在は此処に居る。夏空を見ている。蝉の声を聞いている。爽やかな風の流れを腕先が感じている。僕は欲張りになる。欲張りはあることを思いつく。それはこんなことだ。いなくなった日の分まで風景を見ているという提案だ。いつもの浅さよりももうちょいと深めに、つまり多めの愛情を持って、頭上に広がる青空を見ているという悪巧みだ。これでたっぷり貯金が出来る。とすると、此処を離れた先々でも、この貯金を小出しに出して見ることができるというスキームだ。案外是はグットアイデアものかもしれない。そう思って僕はにやりとする。蝉の声が一段高く谺して来る。丘を越えて来た風が僕の腕の周りに少し長く滞在して僕をカンフォットする。僕はくすぐったくなる。9時を過ぎた。朝顔が、日射しが眩しいと言って、愛らしい顔を、傾斜3度ばかり、背(そむ)け始めたようだ。

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僕たちは仲良く3人でいる

2016年07月21日 08時47分43秒 | Weblog

「おはよう」僕がそう言うと、「おはよう」と爽やかな返事が返ってくる。でもそれは夏空から。それはそうだよね、僕は夏の大空に向かってそう言ったんだから。今度は風に言う。「おはよう」風もすぐに返してくる。僕たち、(僕たちというのは夏空と風と、それにこの僕だが)は仲良く三人でいる。ここは野原だ。小鬼百合が湿地を遠巻きにするように群落を成してあちらこちらに咲いている。

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