<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

zenyosshaさまの風景写真見ました

2016年07月24日 10時52分18秒 | Weblog

zenyousshaさまのブログを拝見しました。富山市高瀬の海水浴場の海の青がいいですねえ。夏の空もいいですねえ。こどもたちが元気に砂遊び浜遊びをしていました。海、山、小川、町並など風景の写真がいっぱいでした。楽しみました。有り難うございます。

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久しぶりの農作業はわずか1時間

2016年07月24日 10時45分55秒 | Weblog

昨夕しばらく外に出ました。蚊取り線香を焚いてそれを腰に結び付けて。タオルでほっかむりをして。長袖長ズボンを履いて。お風呂用の移動椅子に腰を下ろして草取りに従事しました。蚊がぶんぶんぶんぶん飛び回りました。1時間したら日が暮れました。でも外に出て農作業をしたなんて何日ぶり何ヶ月ぶりだったんでしょう。満足でした。井戸水シャワーで体の汗を洗い流して、夕食時には糖質ゼロプリン体ゼロの缶ビールを飲みました。

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長く生きているのは何故か

2016年07月24日 10時06分34秒 | Weblog

さぶろうの書くブログは影響力がない。そこがいいところだ。静かだ。静かな山の中の湖のようだ。彼は此処で日長湖水に足を浸して涼んでいる。木の橋が突き出ていて、旨い具合にそこに合歓の木の大木が木陰を造っていてくれる。彼はいつも独りだ。独りを慰めているだけで余波を立てない。そこがいいところだ。

寿命甚難得 仏世亦難値 人有信慧難 若聞精進求       大無量寿経下巻より

じゅみょうじんなんとく・ぶっせやくなんち・にんぬしんねなん・にゃくもんしょうじんぐう

寿と命は(ともに)甚だ得ること難(かた)し。仏世にも亦(また)値(あ)うこと難し。人にして信と(智)慧とを有(たも)つこと難し。若(も)し(たまたま仏の説法を)聞くことあらば、(その場で)精進して(仏の道を)求めよ。

寿命は齢(長生き)と生命本質の現在活動。「値」はもうあうこと。巡り廻って辿り着くこと。「慧」は仏智見。仏さまの思念。「信」は仏智見に出遭うこと。

寿と命のふたつがさぶろうに加えられたのはなぜか。その答が述べてある。

1)仏の世に生きていることを認識することで仏と対面すること。

2)仏さまの思念(慧)に照らされているわが思念(信)を思うこと。

3)わたしが超世の存在であることを、仏の教えによって聞かされること。

4)その場で自己の内面の高揚を図って勤め励むこと。

5)わたしの求めたい現実課題を求めず仏の求める道を求めていくこと。

さぶろうはこの経典を読む。そして己を省みる。湖水に足を浸してさぶろうは考える。とても一項目も満足させてはいないことに気づかされる。命を永らえていることを粗末に考えてはいけないのだ。生命本質がいま隆々として働いていることを疎かに思ってはいけないのだ。そこで考えが止まっている。合歓の木に合歓の花が咲いている。赤い花の綿毛が鳥の烏帽子のようだ。

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新聞は面白いか

2016年07月24日 08時36分53秒 | Weblog

新聞を読む。新聞はどうだろう。新聞は、では、面白いのか。

面白くするべきなのか。読者を誘導する記事であるべきか、読者に迎合する記事にするべきか。読者の目を大きく見開かせる啓蒙を第一義とすべきなのか。世の中にはこういうことが起こっていますといった平面知識を羅列するだけでいいのか。智慧にまで深めるべきなのか。新聞とはその名の通りまずは「新しく聞いた事柄」を速報する役目を負っている。だから他社に先駆けていち早く発信すべきだ。それを押し並べて共通事項にして認識を共有することに意義があるとすれば、やはりニュースが多くの紙面を占めるだろう。知らなかったことを知ることでその時代その場面を生きているという安堵感に慰撫されたりする。

事実のみの報道といっても、しかし、その事実のどの部分を選択するかで分かれてしまうだろう。各新聞がそこに独自性を発揮する。右寄りだとか左寄りだとか、保守だとか革新だとか、少数派擁護に回るか大多数を牽引するか。時の政府の片棒を担ぐか、偏りを防ぐ側に存在価値を置くか。ともかくさまざまに流儀が分かれている。余りにも強い特徴特色が嫌悪されるということもある。だったら際立たせない方がいい。一団体の利益や一党派の主張に偏らないという姿勢が尊重されるべきだ。

国益を踏みにじったら総スカンを食うだろうが、国益を錦の御旗に立てた戦争などの実力行使、現実重視に追従してもならない。新聞はアクセルであって且つはブレーキである。こうあるべきだというアクセルを踏んでも加速を見ないということもあるだろう。或いはブレーキを踏んでももはや暴走が止まらないといった事態には、新聞はどう対処するのだろう。看過してすませるだろうか、一歩も二歩もはみ出して新聞的過激発言をするだろうか。新聞は時代の先駆的リーダーたるべきか。あくまでも後塵を拝して世を見守りつつ安定をこそ計るべきか。いやはや、新聞と雖も無色透明ということはあり得ない。

新聞は面白いか。面白くしないと結局は読者は離れて行く。売れない新聞はやがて淘汰される。だから、まずは売れるようにしなければならない。新聞はお金で買うのだから、お金に見合う分の見返りを差し出すべきだ。だから当然読者を面白くさせるべきだ。愉快にさせるべきだ。一部は娯楽性をも含めておくべきだ。

新聞の声は国民の声である、だから新聞の声を軽視してはならない。新聞発行人はこう言う。新聞を敵に回すことは乃ち国民を敵に回すことになると恐れる為政者もいる。すると新聞は途端に権威を持ってしまう。それぞれの流儀を立て権威を振り翳すインテリゲンチャー組織があちこちに巨塔を建てて国民である読者にものを申す。こうしてわれわれこそが正義だといった上からの眼で見下ろされることになると、これも面白くない。

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このブログの訪問者数が激減

2016年07月24日 07時26分03秒 | Weblog

仏教に因む話ばかりでは、読者は楽しめまい。このブログの訪問者数もこのところ激減している。多くの人の最大関心事とすることを書いて来なかったからだろう。やはり関心事となるともっとこの世的な、現実的なものだろうきっと。

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