憍慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 楽聴如是教
浄土真宗経典大無量寿経「東方偈」より
*
きょうまんへいけたい・なんいしんしほう・しゅくせけんしょぶつ・ぎょうちょうにょぜきょう
憍慢と弊と懈怠(の者は)、以て此の法を信じること難(かた)しとするに。(この人らは)宿世にあって諸仏に見(まみ)えし(者なれば)、楽(ねが)ってかくの如く(仏の)教えを聴く(に至れり)。
*
高慢で、煩悩・邪見に蔽われ、しかも怠惰な者であったなら、とてもこの正しい仏の法を信じることなどはできなかったでしょう。しかるに、あなたがたは前の幾つもの世に於いてさまざまな仏たちとご縁を繋いできた者たちだから、わたし(釈迦如来)の説くこれらの真理の教えを今みずから進んでこころ穏やかに耳にしていることができるのです。
*
やっぱり仏さまが聞く者を擽っておられます。煽てて煽てておられます。あるいは持ち上げてくださっています。あるいは大切に考えて下さっています。
仏の法を聴いてこれを信じるに至るまでには何度も何度も生死を繰り返してきているのです。そしてその度に多くの仏たちが手招きをしていてくださっているのです。しっかり守護し、導いていて下さっているのです。「宿世見諸仏」とはこの間の事情を述べたものだと思います。
そういう重大な、尊いわたしたちであるのです。
わたしはそれでもなお、或いはなおさらに、憍慢と邪見と怠惰のこころを脱していません。情けないことです。