<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

万年億年も願われて願われて導かれて来た

2016年07月22日 18時46分47秒 | Weblog

憍慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 楽聴如是教

浄土真宗経典大無量寿経「東方偈」より

きょうまんへいけたい・なんいしんしほう・しゅくせけんしょぶつ・ぎょうちょうにょぜきょう

憍慢と弊と懈怠(の者は)、以て此の法を信じること難(かた)しとするに。(この人らは)宿世にあって諸仏に見(まみ)えし(者なれば)、楽(ねが)ってかくの如く(仏の)教えを聴く(に至れり)。

高慢で、煩悩・邪見に蔽われ、しかも怠惰な者であったなら、とてもこの正しい仏の法を信じることなどはできなかったでしょう。しかるに、あなたがたは前の幾つもの世に於いてさまざまな仏たちとご縁を繋いできた者たちだから、わたし(釈迦如来)の説くこれらの真理の教えを今みずから進んでこころ穏やかに耳にしていることができるのです。

やっぱり仏さまが聞く者を擽っておられます。煽てて煽てておられます。あるいは持ち上げてくださっています。あるいは大切に考えて下さっています。

仏の法を聴いてこれを信じるに至るまでには何度も何度も生死を繰り返してきているのです。そしてその度に多くの仏たちが手招きをしていてくださっているのです。しっかり守護し、導いていて下さっているのです。「宿世見諸仏」とはこの間の事情を述べたものだと思います。

そういう重大な、尊いわたしたちであるのです。

わたしはそれでもなお、或いはなおさらに、憍慢と邪見と怠惰のこころを脱していません。情けないことです。

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わたしは権力者であって奉仕者

2016年07月22日 18時39分06秒 | Weblog

日が暮れて来ました。でも日没までにはまだ少々時間があります。これからベランダのプランターで育てている植物群に水遣りをします。ベランダはスレートの屋根がありますから、雨が望めません。彼らには足や手がありませんから、あはれ、わたしを待つしかないのです。その間はずっとひたすら我慢を強いられます。わたししが生殺与奪の権を有しています。わたしは権力者であって奉仕者です。彼らに従順でなければなりません。さ、急いで外に出よう。

 

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アイラブユーばっかり

2016年07月22日 15時48分01秒 | Weblog

仏教の経典を読んでいると嬉しくなる。嬉しくなることばかりが書いてあるから当然である。仏さまからわたしへのラブレターだから当然である。何処を取っても「アイラブユー」ばっかりなのである。何通受け取ってもそれもラブレターである。

わたしが仏さまに書くのではなく、仏さまがわたしに書いて寄こされる。ちょっと照れる。恐縮してしまう。そんなわたしではないのに。仏さまとまともに向き合えるような顔は持たないのである。それを承知で煽(おだ)てられる。

「若人無善本 不得聞此経」 にゃくにんむぜんぽん・ふとくもんしきょう

若(も)し(此の)人に善なる本(性)がないのなら、此の経を聞くことを得べからず。あなたがいい人だったから今この教えが聞こえて来たのですよ。どうか胸を張って下さい、と。あるいはまた、

「清浄有戒者 乃獲聞正法」 しょうじょううかいしゃ・ないぎゃくもんしょうぼう

清浄(な心)で、しかも戒めを有(たも)っている者なれば、(爾は)乃(すなわ)ち(此の)正法を獲たり。あなたの心が清浄で、しかも、これまで戒律を守ってこられた人だから、此の正法(=仏の教え)が耳に入ったんですよ。いやいや何もかもあなたが偉いからなんですよ。あなたは立派な人です・・・などと擽(くすぐ)って来られるのである。どうも我が身の置き所がなくなってしまう。

ふっと、どうしてこれだけわたしたちを下から下から抱き起こしに掛かって来られるのかなあと思います。それでもわたしは根っからが傲慢ですから、傲慢を通してしまいます。なかなか仏の言葉を受け止められません。無価値にして受け流してしまいます。だから、聞いてなかったことと同じです。これじゃ、仏さまはやりきれなかろうと思います。

この二つの偈はともに大無量寿経にあります。まことに忝(かたじけな)いですね。

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その初めわたしに会いに来られていた方があった

2016年07月22日 14時57分57秒 | Weblog

會更見世尊 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜                浄土真宗経典大無量寿経巻下の中にある「東方偈」より

ぞうきょうけんせそん・そくのうしんしじ・けんきょうもんぶぎょう・ゆやくだいかんぎ

(過日嘗て)世尊(諸仏)に見(まみ)えたる者は、すなわちよく此の事を信ずるならん。(この者は)謙(へりくだ)り敬い、(教えを)聞き、奉行(実践)するであろう。(この者は)踊り上がり躍り上がり大いに歓喜するであろう。

「此の事」:阿弥陀如来が本願を完成した事を指す。「奉行」:教えや命令を受けてこれを奉じて執行すること。ここでは仏道の実践。

わたしたちはこれまでに数々の世尊に遭っているのである。それを記したところが「會更見世尊」である。諸仏はじっとしてはおられないのである。進んで世尊の方から積極的に会いに来られているのである。導きに来られておられるのである。そうでなければ、阿弥陀如来の本願が完成したことを信じる能力が起こることはない。聞いて敬って実行に移せるわけがない。悪衆生が躍り上がって歓喜するわけがない。その大元の原因は世尊がその初めわたしたちに遭いに来られていた、そこにある。というのである。この釈尊の説法があなたは信じられるだろうか。

「世尊」はここでは多くの仏たちという複数形で受け取って見ました。「世尊に見る」を「世尊が見る」として考えてみました。

その初めだけではなく、初めから終わりまで、大昔から今日の今日まで多くの多くの仏たちが次から次にわたしたちに会いに来ているのである。そうだとすると頭が下がるではないか。それを知らずにいたことが悔やまれるではないか。

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忍耐が切れた

2016年07月22日 14時44分04秒 | Weblog

茹(う)だるような暑さだ。茹だってしまわないうちに、冷房をオンにするか。そうしよう。電気代はかかるが、仕方がないじゃないか。熱中症にかかるよりはましだ。とかなんとか理由を付けるのに小半時も要してしまった。背中の襦袢が汗を吸いきれなくなっている。お昼は素麺を啜った。手作り昆布出汁、鰹節出汁、炒り子出汁をする造作を省いたもんだから、市販の瓶の中のスメでは満足を覚えなかった。ふん。働いてもいないのになんとかかんとか難癖を付けて、贅沢な老爺だ。その代わり、畑で獲れた胡瓜の、粕漬けがハリハリしておいしかった。これをたくさんパクついて塩分摂取過重。喉が渇くわい。

 

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姿を見せない彼は何者だ

2016年07月22日 14時22分44秒 | Weblog

わたしは因縁の集合体。こうして集合した分子と原子は、分解されて元来た道を戻って行くことになる。元来た道だから、この道には懐かしく幾ばくかは馴染みすらあるはずだ。因と縁が縁起してわたしという(結)果に行き着いている。

因縁が集合したのか。因縁に守護されてわたしが集合したのか。ともかくここに集合体をなして呼吸している。この集合体も、だが、仮寓にすぎない。変化を泳いできたのだから変化を泳いで帰って行く。

わたしは執着を催す。定点に留まりたいというのは執着に過ぎない。生きていることだけが定点ではないのに、死後には定点らしきものがないのではないかという恐怖心に駆られて悶えてしまう。

恐怖心に怯えている者、悶着している者、彼はいったい誰だ。形に見えている集合体、それをわたしの本質にすり替えて、いつまでも一人で迷妄し格闘している者。彼はいったい何者だ。彼には姿がないから、幾度の輪廻を経てもいっこうに姿を見せようとはしない。

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共有共調した時間にいる

2016年07月22日 14時05分06秒 | Weblog

ベートーヴェンのヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第2番ヘ長調Op50という曲を聴いている。もちろんうっとりしている。わたしが美しい音になれないから、音がわたしになっていてくれるようだ。これで風のようにわたしにロマンスが流れて来ている。共有共調したいい時間だ。鬼百合に揚羽蝶が止まって溌剌として美しい夏だ。

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主体者には内向きも外向きに等しい

2016年07月22日 13時45分35秒 | Weblog

外なるものに支配される外道(げどう)でありたくなければ、どうするか。その支配が及ばない自己内道者になればいいのだ。支配され従属せしめられるのを嫌うときには、それを遮断しておけばいい。あるいは支配されるという強迫、従属せしめられているという恐怖の厚着を己の手で脱ぎ捨てればいい。それは実体を伴わないただの観念に過ぎないのだから。人には内面があって、そこにも外面と同じ空間時間が豊かに充満している。従ってそこに目を向ければ何処までも限りなく豊かでありうるのだ。外道に堕ちることはない。自己内道者として認識主体を取り戻せばいいのだ。認識の主体者となっていれば、外向きもまた内向きに等しく、内向きも外向きに等しいのだ。

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わたしは一人ではない 多数者なのだ

2016年07月22日 13時17分14秒 | Weblog

わたしをわたし一人にして閉じ込めておくことはない。そうすればわたしは狭くて暗い洞窟になってしまう。わたしは一人ではない。多数なのだ。わたしをわたしから放つ。開放して何処へでも行く。わたしは明るくて広々としているのだ。わたしがわたし一人でなければならないということはない。固定されたものではない。そもそもわたしに位置はないのだ。わたしは夏空である。同時にそこを渡る風でもある。わたしは変幻である。これを楽しむ者である。わたしは一人称であって二人称。そして二人の胸の内にふくらんでいる三人称。自在なのだ。今日は風景に同化して透き通っているので、わたしの目にも見えない。

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夏場は水芋料理が合う

2016年07月22日 09時12分27秒 | Weblog

茎を食べる水芋が成績優秀である。畑にすくすく伸び上がって繁茂している。ところが我が家ではあまり料理されない。というのも我が家の料理人の肌にこの汁がくっつくとそこが赤く腫れて痒みを伴うからである。だから敬遠される。わたしはこれは夏料理のメニューにもってこいで、あっさりしておいしいと思う。シャキシャキ感も楽しめる。

材料:水芋・鰹節・胡麻・海苔・薄醤油    

調理法;皮を剥く。短く斜めに切る。30秒くらい熱湯で茹でる。水気を切る。皿に盛る。適宜に鰹節や胡麻や海苔をふりかける。小皿に分けてかけ醤油を加える。簡単にできるところがいい。ビールのつまみに合うだろう。あまりにあっさりし過ぎているならチーズやハムを加えてもいい。醤油の代わりに他の調味料にしてもよい。

甘酢にも合うので少量の砂糖と塩と酢を調合したら、柚子ぽん酢の料理にもなる。春雨や薄切りにした胡瓜、青紫蘇、あるいは梅漬けに使った赤紫蘇、マリーネの魚、瓶詰めの鮭などをちょいちょい加えてみると見た眼にも華やかさが伴う。痒みが残るのであれば、事前にしばらく水に晒しておくといいのかもしれない。茹だった水芋は軽く絞ると水分が飛んで食べやすくなる。

それで我が家は昨夜この水芋が食膳を飾った。久しぶりだった。もちろん糖質ゼロの缶ビールで喉をちょい潤したのは言うまでもない。これはおすましや味噌汁の具にも成る。泥鰌汁や豚汁にも工夫できるだろう。

 

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