<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

これを我が眼に見ているわたしは

2016年07月16日 22時31分19秒 | Weblog

こんなことを考えているさぶろうはちょっとおかしいかもしれないね。うん、ちょっとどころではないだろうね。

所作利益得自在  故我頂礼弥陀尊         浄土真宗経典「十二礼」より

しょさりやくとくじざい・こがちょうらいみだそん

作(な)すところの利益は自在を得たり。この故に我は阿弥陀如来を頂礼したてまつる。

生ける者たちに利益を施すこと、阿弥陀如来は自由自在である。これを我が眼に見ているわたしはこの如来と如来の利益のさまを尊重し敬い、うやうやしく礼拝いたします。

この後にまたこう続く。

為諸衆生願力住  故我頂礼弥陀尊

いしょしゅじょうがんりきじゅう・こがちょうらいみだそん

諸々の衆生の為に願力もて住したもう。この故に我は阿弥陀如来を頂礼したてまつる。

阿弥陀如来はここに生きる多くの者たちのためにこころからの願いを建てて救済され続けているのだ。これを我が眼に見ているわたしは如来と如来の願力を尊重し敬い、うやうやしく礼拝いたします。

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わたしへわたしへと貫通していた

2016年07月16日 22時09分27秒 | Weblog

これは前回からの続きです。

しかし、この浅ましいわたしを如来が捨て置かれるはずがありません。

この句の後にこう続いています。

今逢釈迦仏 末法之遺跡 弥陀本誓願 極楽之要門

こんぷうしゃかぶつ・まっぽうしゆいしゃく・みだほんせいがん・ごくらくしようもん

釈迦牟尼仏が法を照らして出現されたのです。わたしたちは末法と言われる時代に暮らしています。その末法を生きる者のために説きおこされたのが阿弥陀如来の本願でした。すなわちこれが極楽浄土に往生できるという根本の教えだったのです。

まるでカラクリのようです。

でも確実にわたしへと繋がっていたのです。

お釈迦様から阿弥陀如来へと繋がり、極楽浄土へと貫かれていたのです。わたしへわたしへと還流し貫通していたのです。

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わたしは長い長い生死流転の輪廻を繰り返して来た

2016年07月16日 18時12分08秒 | Weblog

我等愚痴身 曠劫来流転       浄土真宗経典「帰三宝偈」より

がとうぐちしん・こうごうらいるてん

我等は愚痴の身にして、曠劫より流転す。

仏を見ようともしないわたしはこうして愚痴蒙昧なまま遙か遙か昔から今日に至るまで生きては死に死んでは生まれる長い流転輪廻を繰り返して来て、尚且つこれ(真理真実)に目覚めないでいます。

 

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そういうお前はどうなんだ?

2016年07月16日 14時33分01秒 | Weblog

「そういうお前はどうなんだ?」と己に問いかけると無言になるしかない。語る資格なしの生活をしているからである。仏法に顔向けができない己がそこにいる。言うこと為すこと、実は論外の男なのである。見透かされたら土俵に残れないのである。羞恥の顔があまりに赤いので、仏さまに背を向けていなければならない。正論が吐けないのに、ときおりそれを度外視して吐いているのだ。すかさず「それでお前はどうなんだ?」と問いかけられるのである。さぶろうは、いつもただ「困った困った」になる。

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そしてそうなったのである 成就したのである

2016年07月16日 11時39分03秒 | Weblog

神力演大光 普照無際土       浄土真宗経典大無量寿経上巻中の「重誓偈」より

じんりきえんだいこう/ふしょうむさいど

(我が)神力は大光を演(の)べて、あまねく無際の土を照らすべし。

ここの我とは阿弥陀如来の前身のご修行中の法蔵菩薩です。師とする世自在王如来に向かってお誓いを述べておられます。はじめに四十八の願いをお建てになってさらに重ねてこの十一のお誓いを申し上げておられます。是は其の中の偈です。

無際の土というのは際限もなく広がっている国土ということです。ここには一切衆生が苦悩にあえぎながら生活をしています。ですからこの国土は忍土です。神力は仏法を妨げるものをも打ち砕く超人的な力です。神通力だとか通力とも言われます。衆生救済の利他行に打ち込んでいる菩薩を応援して仏さまがお授けになる力です。自己を利益するには無効、効力なしです。

わたし(法蔵菩薩)は衆生が暮らす国土の隅から隅までを明るく照らし続けるべく活躍を致す誓いを建てました。それには世自在王仏のお力を頼まねばなりません。わたしは苦悩する衆生に智慧の光明を放ち続けたいのです。国土に広がる無知無明の闇を明るくする重大任務に就こうと思います。

そしてそうなった。神力が加わった。大光が演繹された。さぶろうが住んでいるこの無際の土があまねく照らされた。それは遙か昔にご修行された法蔵菩薩、すなわち阿弥陀如来のお誓いに拠るところであった。

さぶろうはそれを思って今日はしばらくここでその献身のご苦労をお偲びしたくなったのです。仏界の神力はここに大光を演べたまふなり。よって我等が住む国土はあまねく無際限に照らされたまひぬ。

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顔が一瞬赤くなった

2016年07月16日 11時33分58秒 | Weblog

ぐずぐずしていて、とうとうもうお昼が近い。お天気もぐずっている。ふふ、さぶろうとおんなじか。笑ってしまった。同じ扱いにはできまいが。この雨降りの中でもトマトが赤く熟れる。感心感心だから、ほほうほほうと声に出して感心してみる。トマトの顔が一瞬余計に赤くなったようだ。

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渋面の皺を延ばしに湯にでも行くか

2016年07月16日 07時50分08秒 | Weblog

こんな日はどうぜ家の中でごろんごろんして過ごすばかりだろう。じめじめした天気に付き合ってじめじめしているのは、しかし、ちょいと飽きて来た。温泉にでも行くか。先日の奈良、京都小旅行では、ついぞ温泉に浸からなかった。あの辺りは沸かし湯が多いらしい。我が故郷には古湯温泉、熊の川温泉がある。これはぬる湯だ。夏場だと寒くない。少し距離があるが武雄温泉は熱い。湯に浸かったという満足が起こる。同じ県内だが、嬉野温泉はもっと遠い。ここは観光地だ。美人の湯の名称があるが、かといってさほど美人が犇めいているわけではない。これは余計か。県境を跨ぐが二日市温泉までは小半時で行ける。硫黄の臭いがする雲仙温泉に行くとすると泊まりがけでなくてはならない。泊まるには金がかかる。金持ちを豪語できる身分ではない。日帰りでいいではないか。背中を流してくれるような同伴者には恵まれないけれども、却ってその方が煩わしくなくていいはずだ。気を揉むこともない。どうせ終日の暇を持て余しているのだ。急ぐことはない。慌てることはない。湯に寝そべって、引き攣った渋面の皺を延ばしてのんびりしたらよかろう。

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己の傲慢に手こずっているばかり

2016年07月16日 07時30分52秒 | Weblog

どんよりした空が覆い被さっている。またぞろ雨になるのかもしれない。蝉は元気だ。天気のことなんか気にしているようではない。雲霧の一角を劈くように鳴いている。風はない。里芋の葉はおだやかにしている。おだやかさを、さぶろうも幾分か取り戻しつつある。つまらぬ小心者なのに、それでいてなかなか手に負えない。難題をふっかけて来る。いやいや彼自らが己を御し難いと思っていることだろう。まして家族の者をや。もったい付けた、呆れた奴だ。昨夜は客人だった。ふてくされたままでは応対もできぬので、やや渋面を崩して食膳の場に同席した。ぎこちなかった。しかし、少々だがビールも付き合った。己という馬は暴れ馬だ。70年調教をしてきたはずなのだが、ふてぶてしく野を駆け回るばかりだ。おとなしくして人生の重荷を運ぶ荷役につかない。従って、己の傲慢に手こずっているのもさぶろう自身だ。

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