<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

般若理趣経というヒマラヤにトライ

2016年07月25日 21時17分02秒 | Weblog

如蓮体本染 不為垢所染 諸欲性亦然 不染利群生       

じょれんていほんぜん・ふいこうそせん・しょよくせいえきぜん・ふせんりきんせい

蓮の体は本染にして、垢(く)の為に染せられざるが如く、諸欲の性も亦然(しか)なり。不染にして群生(ぐんじょう)を利す。

真言宗経典「般若理趣経」より

池に咲く蓮の花はあれは元々の蓮の色合いであって、池の泥土の垢に染まっているわけではないのである。それが持つ諸欲(のエネルギー)もまたその独自性を発揮しているのであって、他のものに染まっているのではない。その独自性を活性化して(香気を放ち)もろもろの存在を清浄にすることができるのである。

(これはさぶろうのいい加減な訳だから、読者諸氏は毒されてはいけない。それぞれの解釈をなしていただきたい)

染まっているかいないかは、その影響を受けた者次第である。垢がそこに有るから垢の為に染められてしまうということは、ないのである。己の内に諸々の欲が起こってくるが、諸欲そのものはエネルギーであって清浄である。蓮が池の泥をスタートしても垢に染まらないように、不染の性質を内包する諸欲は、始めから終わりまでが清浄である。蓮は香気を放ってついには周りをも清浄にするのである。

否定すべきところを肯定する。密教にはこういう特質が見受けられる。ほんとうにそうかと考え直す。それは己の判断の色付けに拠ったのではなかったか、と。発電されたエネルギーそのものはもともと清浄なのである。染まってはいないのである。

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肉体に執着をしないという実践

2016年07月25日 20時55分31秒 | Weblog

外壁の白壁に、おやおやまあ、青蛙がぺったり。くっついている。しかもだ、後ろ足を左右不均衡にしていまにも飛びかかりそうな姿勢をなしている。ふうううん、きみはこれから何をしようてんだ? 僕は審問を発した。彼曰く、いまに面白いことが始まるぞ、だって。何が始まるのだろう、さて。僕は興味津々になった。彼はもしかしたらマジシャンなのかも知れない。いやいやそれ以上かも知れない。それ以上って? そうさね、彼はヒマラヤの山中で長いことユガ行の修行をしてきた行者かもしれない。だったら、彼は変身術が身についているはずだ。形に拘らなくてもいい、そういう段階に達しているのかも知れない。などと僕は僕で想像をたくましくした。待った。ぬ。彼の前に一匹の蚊がやって来た。これを彼はその後ろ足を利用してパクリと呑み込んでしまった。彼曰く。「これで彼は成仏した。わたしは彼に慈悲を施したのだ」そうだったのか、蚊の形、つまり肉体を消滅させることがすなわち成仏の手伝いになったということだったんだ。肉体に執着をしない。蚊もまたこれを実践したのだ。

 

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好きな日本酒でもやるか

2016年07月25日 17時39分26秒 | Weblog

c型肝炎の疑いがまだとけない。数値は低いのに、陽性反応に医者は拘っている。いつ発症するか分からないかというので、脅されて三ヶ月に一回ずつ検査に行く。しぶしぶ病院へ行く。午前9時に着いた。血液検査と超音波肝臓検診がある。午後になる前に診察室に呼ばれた。無罪放免だった。血糖値が高いのも治さねばならない。異常に高い悪玉コレステロール値を改善する薬はすでに渡されて飲んでいる。これも危険水域を脱していた。ヘモグロビンc1の値も0・3ポイント低くなっていた。あと0.3ポイント下がれば正常値の範囲内に来る。喰ってはならないものが多すぎるのでいささかこれがストレスになっているので、今日は羽目を外そう。好きな日本酒でもやるか。

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意気地なしは今日はもう外に出ない

2016年07月25日 17時30分36秒 | Weblog

昨日も夕方になって外に出た。一昨日よりは長く留まった。お陰で夏草の茂みがきれいさっぱりした。ところが、左の首を刺されてしまった。ちくりとした。追い払ったがもう後の祭り。毛虫の仕業か、蜂の攻撃だったか。虫刺されを塗ってもらったが痛みは消えない。お布団にやすんでからもちくちくちくして困った。芋虫のような赤い斑点がぶつぶつできていた。やっぱり毛虫だったかもしれない。これを嫌って、意気地なしは今日はもう外に出ない。庭も畑もまだまだ、城破れて山河あり、茫漠として荒れ果てているというのに。

 

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今夜は冬瓜の料理 匂うぞ

2016年07月25日 17時22分05秒 | Weblog

さぶろうは冬瓜が好きだ。ちょっと青臭いところも好きだ。歯触りも好きだ。今夜はこの料理のようだ。鶏の手羽先も一緒のようだ。これにデンプンが混入されてとろみがつく。冬瓜はやや大きめに切ってある。基本は塩味だ。これを竹の箸で崩して食べるとおいしいんだよなあ。焼酎が合いそうだ。一合の焼酎ではきかないぞ。種は捨てない。来年またこれを畑に撒き散らす。これで無尽蔵。尽きることがない。

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雀は暑くはないのかなあ

2016年07月25日 17時17分58秒 | Weblog

瓦屋根のとっぺんで群雀たちが飛び跳ねている。遊んでいる。太陽がぎんぎらら。暑くはないのかなあ。暑いに決まっているだろうけど、そんな顔はしていないなあ。どうしてだろうかなあ。といっても涼しそうな様子でもないけど、それを問わずにこの夏の昼下がりをみんなで戯れて遊んでいるなあ。

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我が悟る要なし 仏に悟らるるのみ

2016年07月25日 16時34分38秒 | Weblog

唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相 

ゆいぶつよぶつ・ないのうぐうじん・しょぼうじっそう 

ただ仏と仏のみが、乃ち能く諸法の実相を究め尽くせり

仏さまでないと仏さまの世界は分かりませんが、ひとり仏さまが諸法の実相を究め尽くしておられますから、それで十分で、ただ安心していていいのです。ここはわたしたちの差し入るところ、わたしの思議が届くところではないのです。(これはさぶろうの解釈ですから、間違っているかもしれません)

妙法蓮華経方便品第二より


ここを道元禅師は『正法眼蔵』で以下の如く説いておられます。

「仏法は、人のしるべきにあらず、このゆゑに、むかしより、凡夫として仏法をさとるなし、二乗として仏法をきはむるなし。ひとり仏にさとらるるゆゑに唯仏与仏乃能究尽(ゆいぶつよぶつないのうくじん)といふ。」

仏さまが悟っておられるから、凡夫のわたしが悟る必要はありません。また悟りきれることではありません。

「諸法実相」とはこの世の成り立ち、この世の真実の姿を指しています。仏さまの活躍されている舞台のことです。

「唯仏与仏」というのは仏さまが仏さまと向き合っておられる図とも見ていいのですが、要するに仏さまを理解が出来るのは仏さまでしかないということです。わたしが「仏とわたし」を作図はできませんが、仏さまはそれを作図しておられますから、手出しをしなくともいいのです。



結局は、仏法とは諸法実相を覚知した仏のみがよく、その仏の到達した諸法実相を究め尽くしているのであり、凡夫(愚者のわたし)や二乗(声聞という直接のお弟子たちと菩薩という法界のお弟子達)の知るところではない、ということです。

よかったよかったと思います。わたしが覚知しなければならないとしたら仏さまの世界(真如界・悟りの世界・安養浄土)への道が閉ざされてしまっていました。わたしが剣を取ることはなかったのです。

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ともかく我々は安心をしていていい

2016年07月25日 16時15分04秒 | Weblog

さっきここに書いた「則我善親友」の続きをアメーバブログに書き足しました。「http://ameblo.jp/ 8888waoh」もしくは単に「8888waoh」で検索するとここに至ります。タイトルは「おでいげにようこそ」です。

ところが書いても書いても、最後の一点が書き切れません。説明が不可能です。まさしく摩訶不思議としか言いようがありません。ゴール地点がわたしたちの思議を超えてしまっているのです。そこにあるのに地図で指し示すことが出来ません。同じ面にはないのです。次元がまったく違っているといってもいいかもしれません。人間の思惟は人間の次元のものを捕捉することができますが、人間の思惟では仏の次元にはまったく手が届かないのです。

それでもそこに到達点があるのです。ゴールがあるのです。それを「仏の国」だとか「浄土」「安養浄土」だとか「真如界」「涅槃界」だとか言っているのですが、あくまでそれも説明用語でしかありません。言葉をもってしても届かないのです。隔絶していながら、しかもなお非隔絶です。理解が出来ないけれど、とにかく安心をしていていいのです。理解をしないままでいいのです。仏陀がそこに待ち構えているだけです。そこは仏陀の智慧の世界です。わたしが思い計らう世界ではないのです。

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あなたはわたしの善き親しき友である

2016年07月25日 15時09分04秒 | Weblog

聞法能不忘 見敬得大慶 則我善親友 是故当発意   もんぽうのうふもう・けんぎょうとくだいきょう・そくがぜんしんぬ・ぜことうほっち            大無量寿経下巻より         

法を聞いて能(よ)く忘れず 見て敬って得て大いに慶(よろこ)べば、則(すなわ)ち(この人は)我が善(よ)き親友(しんぬ)なり 是の故に当(まさ)に発意(ほっち)すべし

「あなたは教えの示す道を聞いて忘れることなく、是を仰ぎ見て敬い、是を身に受けて敬いのこころを興し、大いに慶ぶ人になっておられるようだ。これでもうあなたはわたしの大切な親しき朋友である。さあそれだから今こそまさに喜びの心を興してこの道を進みなさい」と仏陀がその場でわたしに告げられたのだった。

今日のさぶろうはこの経典を読んで「則我善親友」という一偈で喜び勇んだ。仏陀は親しく近づいてわたしをよき友とされたのである。これはもう上下関係ではない。わたしの位置にまで仏陀(釈迦如来)が下りて来て、「さあ、ともに旅を続けよう」と誘いかけて来られたのである。わたしと仏陀が横並びになって歩むのである。わたしは到底仏陀の高さにはいないのに、である。申し訳ない気分でいっぱいになるではないか。

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鰻食べださず

2016年07月25日 09時34分44秒 | Weblog

筑後川の下流域に天軒寺橋が架かっている。渡って右、つまり海側へ曲がるとそこが黒田になる。ここに鰻屋が軒を並べている。昨日は日曜日とあって込み合った。正午をちょいと過ぎたばかりだったが、どの店も玄関までに行列ができていた。外は34度近い。暑い暑い。暑さをものともせずに、人は順番待ちをしている。それほどの忍耐力は当方には備わっていない。三軒回って諦めた。残念。鰻にはとうとうありつけなかった。鰻は夏場のスタミナ源。夏バテ防止になる。これを狙って人が殺到する。引き返す道すがら、途中のコンビニで笊蕎麦315円を買って冷房の利いた車の中でそくそくと食べ終わった。

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