如蓮体本染 不為垢所染 諸欲性亦然 不染利群生
じょれんていほんぜん・ふいこうそせん・しょよくせいえきぜん・ふせんりきんせい
蓮の体は本染にして、垢(く)の為に染せられざるが如く、諸欲の性も亦然(しか)なり。不染にして群生(ぐんじょう)を利す。
真言宗経典「般若理趣経」より
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池に咲く蓮の花はあれは元々の蓮の色合いであって、池の泥土の垢に染まっているわけではないのである。それが持つ諸欲(のエネルギー)もまたその独自性を発揮しているのであって、他のものに染まっているのではない。その独自性を活性化して(香気を放ち)もろもろの存在を清浄にすることができるのである。
(これはさぶろうのいい加減な訳だから、読者諸氏は毒されてはいけない。それぞれの解釈をなしていただきたい)
染まっているかいないかは、その影響を受けた者次第である。垢がそこに有るから垢の為に染められてしまうということは、ないのである。己の内に諸々の欲が起こってくるが、諸欲そのものはエネルギーであって清浄である。蓮が池の泥をスタートしても垢に染まらないように、不染の性質を内包する諸欲は、始めから終わりまでが清浄である。蓮は香気を放ってついには周りをも清浄にするのである。
否定すべきところを肯定する。密教にはこういう特質が見受けられる。ほんとうにそうかと考え直す。それは己の判断の色付けに拠ったのではなかったか、と。発電されたエネルギーそのものはもともと清浄なのである。染まってはいないのである。