「捨、これ道場なり。憎愛断ずるが故に」 「維摩経」第4章より
さぶろうは今日はここを考えてみる。しかし、さぶろうの把握は間違いだらけかも知れない。
*
「捨てる」の反語は「拾う」である。
拾い得てすでにたっぷりあるからその後に得たものは捨てていいものばかりである。
仏陀は「大いなる放棄を成し終えた者」とも呼ばれている。
だから「捨てること」「放棄すること」は仏教の道場では必修科目なのである。
道場の修行では「得る実践」が根本のように思われるが、「捨てること」なのだ。
ここには十分あるのだ。具わっているのだ。すでにすっかり具備されているのだ。
それが見えないので、細かいものを掻き集めてきてそれをあたかもこの世の最高の宝物のように大事にしているのだ。
それが憎愛となって、煩瑣な煩悩を逞しくしているのだ。
憎愛は着ぶくれをするばかりだ。
己が眼で見ての憎愛である。気に入ったものには愛着を覚えるが、そうでないものには憎悪を覚える。
しかしこの憎愛は絶対的ではない。己の色眼鏡にそう見えたに過ぎないものである。
だから、憎愛の憎も愛も二つとも我が方の色眼鏡を通したものであって、己の主観を出ない。
そればかりか、それが己に災いを起こすのである。意のままになる得失と思うとなおさら欲望が掻き立てられるのである。出口のない執着になるのである。煩悩が深くなるのである。
憎愛の二つとも断絶させたところに涅槃寂静が出現するのだ。寂滅滅し已(おわ)ったところに大いなる安らぎが生まれて来るのだ。
憎愛に限らない。われわれの思考は好悪、美醜、正邪、優劣、大小、増減など比較相対という道具に拠らないでは生まれ得ない。片方だけでは思考が出来ないのである。判断が覚束ないのである。
「捨」も「断」も主観の放棄、色眼鏡不使用ということである。すでに「在るもの」を「ないもの」と見立てて出発すると、われわれはあれこれ手に入れることに邁進することになる。
はじめに真理ありき。はじめに調和ありき。はじめに完成ありき。はじめに仏智見ありき。はじめに仏国土ありき。はじめに涅槃ありき。
われわれはその出発点を出発した者だったが、それに疑いを掛けるようになったのである。そして己の主観、人間の色眼鏡を頼みにするようになったのである。
*
ここまでを推理してみました。完成された仏の国に降り立ったわたしであった。この事実を疑った代償は、いまや雑多の付属品を巻き付けて雪達磨式に膨らんでいるのかもしれない。