<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

よも、裏切られることはあるまい

2016年07月05日 20時30分48秒 | Weblog

肉体がお前か。

はい。わたしは肉体です。目に見えて信じられるのはこの肉体だけです。見えないもの、形がないものは存在していません。泣いて笑うのも肉体の指図通りです。

わたしにこれだけ信頼されている肉体である。よも裏切られることはあるまい。

よも。よも。

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したたかに感動を食べた唐津の日本料理店

2016年07月05日 15時13分57秒 | Weblog

唐津に小綺麗な店がある。日本料理を食わしてくれる。ここのは一品一品、気品がある。おいしい。それが即、包丁を手にする人の気品だろう。開店して間もない。まだそれほどに認知されていない。懇切に扱ってくれる。だから喰った者が先ず一番ラッキーである。料理の随所随所に工夫がある。それが分かって目が飛び出てしまった。ご夫婦で切り盛りされている。二人とも食の芸術家にふさわしい。ごてついていない。健康指向者が客となるだろう。さぶろうはとりわけトウモロコシご飯の仄かな香りを愛した。器も洒落ている。最後の寂び茶で仕上がる。苦瓜を磨り潰したデザート饅頭ももう一度食べてみたい。店の入り口には宣伝する呼び込みがない。こんなにしたかかに感動を喰わせてもらうとは、初めて入り口に立つ者の誰も思わないはずである。「ひら田」で検索できる。都合10人しか座れないほどの小さな店だ。

 

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病(やまい)何(いず)れの所ぞや

2016年07月05日 14時28分50秒 | Weblog

「病(やまい)何(いず)れの所ぞや。病不自信の所にあり」    臨済宗妙心寺派「宗門安心章」より

凄まじいまでの切り口である。一刀両断というところではないか。

不幸不運という病に罹っている病人・患者は多いものだ。

「己を不幸者扱いするな」ということか。

水の中に居て渇を叫ぶ者にはなるな、ということか。

経典の言うところはこの句の後に続く「自性(じしょう)即ち無性」ということだろう。己の内の健康そのものの仏性(=自性)に「病無し」。ここに徹底せよということか。

続いて「不安の心を求むるに不可得なりと徹してぞ二祖安心は得たまえる」とある。不安という心が何処にあるか。得体の知れない者(不安)を得体にして怯えているのは、そも、何ものぞ。探してもそんなものは掴めまい(不可得)。ここを徹見した禅宗第2祖の慧玄はこうして安心得度をなさったのである、と。

おまえさんどうして病んでなどいなさる? 

病不自信(びょうふじしん)の所を好みなさんな。「病自信」の所に引っ越しなされ。

「わしは病が苦手でな。逃げてばかりよ」 これが病不自信。これじゃ辛くなるばっかり。

「おお、来い来い。わしのところで匿ってやるぞ。おまえの活躍の場所を提供してやろう」 これが病自信。彼は病を引き受けられるのだ。智慧慈悲ともにスケールが違う。大物なのだ。

病は敵であって味方である。敵にするも味方にするも選択は自由だ。味方に引き入れるとこれがまた意外な力を発揮してくるもの。第一明るくなる。引き摺られなくなる。世を生きる主体者となる。彼はあれこれ病のせいにしなくなるのだ。

敵に活路を見出してやることができる者となると、そこからはそれは味方だ。鬼の金棒だ。

***

禅宗は明るい。とてつもなく明るい。暗愚さぶろうはとうてい着いては行けないなあ。

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暑さ凌ぎに冷やした西瓜でも食うか

2016年07月05日 14時16分53秒 | Weblog

昼寝をしようと思うのだが、どっこい、そうはいかない。ともかく暑い。部屋に冷房はしていない。さっき裸になって冷水で体を拭き上げたが、快感が持続せず、すぐにまた汗にまみれてしまった。午後2時半。暑い盛りか。そうだ、冷やしてある西瓜でも食うとするか。この頃売られている西瓜はフォークで刺して口にするだけの大きさになって丸いパックに収まっている。だらしない老人には重宝する。

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いろいろの考え方があっていいではないか

2016年07月05日 13時54分00秒 | Weblog

いろいろな色があるように、いろいろな考え方があっていいのである。いろいろな実現もあっていいのである。

「これだっ!」と結論づけるまでにはいろいろな色付けをして行くしかないではないか。

そうそう手早く結論に行き着いて人生の店じまいすることはあるまい。

結論だって千差万別のはずである。

百花は繚乱してその一つ一つの花にも無量の美が横溢しているのだし。

一つの結論に到達するとそれは固定してしまう。すると柔軟性が一気に失われて来る。

それを保つことにしか興味が湧かなくなってしまう。すると他者の排斥が始まる。そして己のみを孤高にしてしまうことになる。

たくさんの選択肢の中から最後の一つを選んで、それまでの数々の迷いをゼロにした分、その代償として固形物としての堅さ、頑なさに覆われてしまうことにもなりかねない。

いやはや難しい。

10

宙ぶらりんでも、だから、いいのではないか。どっちつかずでいいのではないか。

11

もったいぶった言い方をすると、それこそが中庸なのではないか。自由自在を通すということではないか。

12

などと、だらしなさという点で抜きん出ているさぶろう老人は、自分のこのだらしなさの自己弁護を思いついたのである。いつまでも唯一絶対の真理、つまり悟りに到達しない自己を慰めてみたのである。彼が直面しているこのどろどろの泥沼の、再評価を試みたのである。

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今日は明日のための準備の日か?

2016年07月05日 13時21分38秒 | Weblog

「明日こそ幸せになるぞ、明日こそ幸せになるぞと死ぬまで幸せになる準備ばかりで終わってゆく」パスカルは「パンセ」の中でこう言っているが、明日を待っているその準備は楽しくなかったのだろうか。それも楽しかったはずであるが、賢明なわれわれはそれくらいを楽しいとはしなようにしているのかもしれない。全部をそこで消費してしまわないで、明日に火種として残しておきたいと思うのかもしれない。「明日はもっと楽しい一日に成る」という期待が抑えがたかったのかもしれない。しかしもしほんとうに準備をするのに苦労をするだけだったら、そしてそれを一生涯に延長していたのなら、これはつまらないだろう。パスカルは「明日のための今日」という位置づけではなく、「今日のための今日」にすべきだという主張をしているのだろうか。「今日の苦労は今日一日にして足れり」という諺もある。その日のうちに完全消費をしてしまうというのも一つの生き甲斐だろう。だが、ローマは一日にして成ってはいない。「明日のための準備」というのも不可欠かもしれない。

死ぬその日までパスカルの言う「明日」はあるだろう。それともその前日までで「輝かしいことが実現する明日」というのは自然消滅してしまうものなのだろうか。もしそうなら、死の当日こそが一生涯に「積もり積もった明日」ということになる。明日の集大成ということになる。そこで一気にこれまでの楽しみが点火されて爆発し燃焼をするのかもしれない。だとすれば、われわれは一生涯を掛けて「偉大なる死の当日」「かがやきが実現するたった一日」を待ちわびるようになるはずである。それとも、死後の第一日がこの日に当たるのだろうか。「この日に向けて生涯の全エネルギーが蓄積されていた」という怪奇を、死後の第一日目に目の当たりにするのだろうか。

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選択肢がある人間と、ない里芋

2016年07月05日 12時26分04秒 | Weblog

いひゃあっ、一挙に暑くなってきたぞ。でかい里芋の葉っぱが日射しをいっぱい受けて火傷しそうになっている。足のない植物は逃げられないからなあ。さぶろうは足のある人間だから日陰に隠れていれる。残酷な外の現場を眺めてもいられる。一方彼らは、涼しいところへ快適なところへという選択が、できない。つまり、じっとひたすら我慢をするしかない。なるほどここは人間が一枚上手だ。我慢を避けるという選択肢が選べている。エノコログサの細い葉と細い穂先が風に揺られている。同じく足を持たない彼らだが、酷暑がそれほどに感じられていないのかもしれない。その代わり里芋ほどには光合成が捗らない。

病院の診察を受けてそれから帰宅。途中スーパーに立ち寄って、冷えたパック西瓜を買ってきた。もう食べられる大きさに切り分けられている。冷蔵庫にしまっておいた。3時になったらこれを少し食べよう。それでもなお日射病が心配されるほどだったら、里芋にはすまないが、裸になって冷水のシャワーを浴びよう。

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退院後の初通院

2016年07月05日 09時00分35秒 | Weblog

今日はこれから病院へ行きます。退院して10日が経過しています。初通院です。術後観察です。整形外科に10時の予約が入っています。右足に支障はないので自分で車を運転して行きます。もしかしたら血液検査もあるのかもしれないので、朝食を抜いています。お腹がぐううと鳴っています。今日は夏日。晴れ渡っています。気温が急上昇するという予報です。我が家の冷たい井戸水をペットボトルに詰めて持参します。

 

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ひたすらこの深い感動のために

2016年07月05日 08時37分48秒 | Weblog

さぶろうは老人である。つまり多くの時間を食べて来た。そこで多くの体験をも食べて来た。食べた時間はどれほどにおいしかっただろうか。食べた多くの体験はどれほど消化されただろうか。彼はそれをすべて「わたしは生きている」という純一無雑な感動に充ててきたのだ。時間と体験という食事を、ひたすらこの深い感動のために、投入してきたのだ。さぶろうというこの老人にそれは深まっただろうか。時間を浪費しただけになってはいないだろうか。浪費して浪費して来たせいで、更に新たな時間を必要としているのではあるまいか。彼に反省が起こる。夏空が広がっている。白い雲がそこに湧いている。彼にこの体験が与えられる。この体験をものにしなければ、彼はこの日またもや、もぬけの空になってしまうかもしれない。

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生の深い感触をパスして

2016年07月05日 07時51分53秒 | Weblog

ここにこうしている。これがさぶろうだ。彼は息をしているから、いまここを生きているのだが、その生の深い感触はきっと死後にならないと掴めないのかもしれない。それができなくなってやっと彼は一息の充足をおごそかに感じ出すだろう。もったいもないが、それまではお預けにしておくしかない。いまできることを、いまはパスしている。パスを繰り返してすっかり老いている。7月の朝、ニイニイゼミが耳をつんざくように鳴いている。胡瓜畑では小さな無数の花の金色。風はない。空を白い雲が流れていて、合間合間に青空が出現する。

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