<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

今夜は我が町の花火大会

2016年07月23日 20時56分23秒 | Weblog

今夜は我が町の花火大会である。打ち上がる度に音が弾けている。櫛田宮の池の周囲に発射台が置かれているらしい。それが4kmほど離れた我が家にも届く。ぽんぽんぽんぽんと。夏が来ていますよ。夏の夜のひとときを楽しみませんか、と。二階のベランダまで上がっていけば、花火は見えるかもしれない。でも、もう晩酌をしてしまった。微酔いになっていて、次の行動に進まない。多くの花火ファンが集まっているであろう。打ち上がるごとに歓声が洩れているであろう。夜店も並んでいるだろう。浴衣を着て団扇を扇いでいる若者の艶やかな姿をイメージして、老いた我が輩は満足するとしよう。

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それは必ず確立して不動である

2016年07月23日 17時30分21秒 | Weblog

なお言い得ていない。言いたいことが明らかになっていない。伝えることができないでいる。伝える前に自分自身に明瞭になっていないからだ。掴み取ったと言いながら掴み取れていなかったのだ。むしろどんどん遠離っていく。見えなくなっていく。

どうしたらいいのだ。なぜこうも無力なのか。近づけないのか。不甲斐ないさぶろうだ。さぶろうなんか相手にすることはないのだ。

さぶろうに見えている視界の外に、その千万億兆倍の明るい世界、確かな世界が広がっている。その安心を表現したいのだが、するりするり擦り抜けて行ってしまうのだ。

どうしたらいいのだ。どうすることもないのだ。安心の世界が堂々としてそこに存在しているのだから、さぶろうごときが手を尽くすことはないのだ。蒙昧のさぶろうが束に掛かったところで、それが顕わになって来るということもないのだ。さぶろうの前に顕わになってこなくとも、だが、必ずそれは確立して不動なのだ。

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歓喜と安心と勇猛心を掻き立てられる偈

2016年07月23日 16時19分55秒 | Weblog

仮使一切人 具足皆得道 浄慧知本空 億劫思仏智 窮力極講説 尽寿猶不知 仏慧無辺際           大無量寿経下巻より

けしいっさいにん・ぐそくかいとくどう・じょうえちほんくう・おっこうしぶっち・ぐうりききょくこうせつ・じんじゅゆうふち・ぶってむへんざい

たとい一切の人が、具足して皆道を得、浄慧(を以て)本来の空を知り(尽くし)、億劫(の間)も仏の智(慧)を思い、力を窮め講説を極め、(寿)命を尽くすとも猶、仏の智慧が無辺際であることをば、(彼らは)知らず。

結論は最後の「仏慧無辺際」である。それまでの6節は皆ここを力説するための説明である。

ぶってむへんざい。仏の智慧の及ぼす範囲は無辺際である。

何がどうあろうとこの事実は不変である。

仏の智慧が及ばないところはない。此処は仏智が及んだ世界である。何処にも此処にもあなたにもわたしにも、仏の智慧が及んで働きに働きづめであるが、それを知り尽くす者はいない。たとい道を開いて空を悟った者であろうとも。たとい、億劫の間仏の教えに邁進して来た者であろうとも。

1)戒と律とを具足しているどんな者であっても   2)完全に仏の道を極めたどんな者であっても  3)清らかな智慧を授かったどんな者であろうとも  4)本来空であることを悟ったどんな者であろうと  5)億劫という長い時間仏を思量してきたどんな者であろうとも  6)力の限りを尽くして教えを説き明かして来たどんな者であろうとも  7)それで寿命のすべてを投入してきたどんな者であろうとも

・・・なお「仏慧無辺際」であるという一事実を知らずにいる。それほどに深いというのだ。それほどに無限大だというのだ。それほどに無辺際だというのだ。

道を得た人でもなお知らないでいる広大な、無辺際な仏智世界が存在している。そこにこのさぶろうが同時に存在している。なんという大きなエンカレッジメントだろう。なんと凄まじい鼓舞か。歓喜と安心と勇猛心を掻き立てられる偈である。

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もしも死なないとしたらどうなんだ

2016年07月23日 15時34分35秒 | Weblog

わたしは押っつけもうすぐ死ぬことになるのだが、もしもこの後やっぱり死なないのだとしたら、どうだったんだろう。いや、間違いなく死ぬのだから、<もしも>なんて考えることはないのだが、ふっとその仮定法を使ってみたくなった。

死なないのだとしたら? 

1,老いが深まる。

2,病の巣窟になる。

3,肉体が擦り切れてしまってへとへと状態になる。

4,意欲が衰退する。活動しようにもすぐさま飽きが来る。

6,老醜が程度を加えるばかりで誰もが敬遠をする。

7,生と死が平行線を保ったままで交わらず結合しないから、二者の間に誕生するはずの嬰児が誕生しない。

8,延長線がずるずる延長されるばかりで区切りが付かないので嫌気が差してくる。

9,現状維持の儘で何処までも何処までも次の段階に進まないので、畢竟、この世だけしか知らない未熟者で終わる。

10,けちってけちって廃車しないから、車はどんどん古くなって、もう回りに旧式が走っていないようになる。

11,生きている者は死ぬという法則を違反することになるので罰金が科せられる。

12,いつまでも新しくならない。 

・・・そこまで考えておしまいにした。肉体の生死に固執することがそれほどの重大事には思えなくなってしまった。

悪いことばかりを思いついてしまったが、これは不平等である。さぶろうよ、いいことはなかったのか、ほんとうに? きっとあるはずだと思う。5個くらいはあると思う。その一つ、長く長く生きていたら最高記録更新者でギネスブックに登録されるだろう。

 

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人々の旺盛な購買意欲に元気をもらう

2016年07月23日 15時11分31秒 | Weblog

三ツ瀬峠を越えて県を跨いで周船寺の方向に走り伊都の国に至った。ここにかなり大型の道の駅がある。新鮮な海の物山の物が所狭しと列んでいた。なかなかの賑わいである。東京銀座には行ったことがないが、東京銀座はさだめしこれくらいの人混みだろうと思われるほどであった。あれこれ見て回って、結局買ったのはサザエ6個と烏賊の切り身と鯛のアラだった。老若男女まわりの人の購買意欲の旺盛さを見ているだけで元気をもらったようだった。幾つもあるレジは悉く列を成した。イギリスのEU離脱問題以降しばらく停滞を余儀なくされていた日本の経済力はいまだ健在だった。

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わたしは見上げているだけでいい

2016年07月23日 14時45分22秒 | Weblog

わたし以外がことごとく仏である。あるいは仏の化身である。あるいは仏を表現している。あるいは仏の分身である。あるいは仏によって守護され育てられている。あるいは仏を反映している。そうだとすれば、わたしが急いで近々に仏に成ることはないのである。周囲の仏さま方を見渡して讃仰していればいいのである。

この世の99・9999%が仏の表現体であるのなら、残りの0・0001%が慌てることはないのである。きっと仏という大河の流れに乗って滞りなく流れて行くからである。その間に0.0001%のわたしは仏に染め上げられてしまうであろう。そんなふうに思われる。

夏空が広がっている。この夏空ももちろん仏の表現体である。自己顕現である。そこに山があり海があり野原があり小川が流れている。小川の岸に沿って鬼百合が咲き乱れている。揚羽蝶がその上を舞っている。風がかそこそ動いている。わたしがそこに立って夏空を見上げている。

夏空は青い。わたしを夏の青空にしなくてもいいのである。わたしも夏になっているのである。わたしもうっすらではあるが、青空の青に染まっているのである。後れを取ってはならないと自分に言い聞かせる必要はないのである。ゆっくりしていていいのである。走り出さなくともいいのである。わたしは見上げているだけでそこがすっかり夏の青空になっているのである。

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わたしが仏に成ることもないではないか

2016年07月23日 09時52分43秒 | Weblog

仏典を開いているとまるでここまでがその仏典の海の広がりのようになって来て、仏陀の言葉の白い波頭が浜辺に打ち寄せて来る。そういう錯覚に酔い痴れる。他愛もない。

如来智慧海 深広無涯底 二乗非所測 唯仏独明了       「大無量寿経」下巻より

にょらいちえかい・じんこうむがいたい・にじょうひしょしき・ゆいぶつどくみょうりょう

こういうふうに音だけを列べてぶつぶつぶつぶつ発音しているだけでここちよいなあ。

如来の智慧は海なり。深し。広し。涯がなく底がない。修行中の仏の弟子たち、声聞衆も菩薩衆(二乗)も思い測ることなどできようがない。唯、仏のみが独り智慧明らかにして悟り了(おわ)る。    (これはさぶろうの偏見解釈)

「唯仏独明了」この偈を耳にしただけで爽快だ。これでいいのだ。仏にしか理解ができないのだから、それでいいのだ。仏の智慧の眼でしか見えないが、そういうダンマの仏界があるというだけで、十分なのだ。直接に教えを聴いた声聞衆も、聴かずに修行が成った菩薩衆も、自分では測る物差しを持ち合わせてはいないのだ。仏の眼を借りて来てこれを見て思い測ることができるのだから、これでよしとする。

如来の智慧の深さ広さ。底なしの海にあふれている仏智見。これに便乗できるのだ。経典を読むと言うことは便乗すると言うことなのだ。唯仏のみが独り悟り了(おわ)って、その智慧の眼が透徹し明るく澄み切っている。だったら、わたしを仏にする必要もないではないか。このままこのまま。急がない慌てない。ねだらない貪らない。懼れない怯えない。おこがましくしない。のさばらない。ひるまない。このままこのままで明るく澄み切っていられるのだから。

 

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ぽつぽつ人間はぽつぽつでいい

2016年07月23日 09時16分55秒 | Weblog

まあ、ぽつぽつ。これでいい。どうということはない。もともとが、ぽつぽつ人間なんだから。急がない慌てない。狙わない欲しがらない。こういうライフスタイルだから、毎日がのんべんだらり。だらだら。進歩というものが見込めない。まるで。おんなじところをぐるぐる回る。

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ブルーベリーがたっぷりで濃い赤紫

2016年07月23日 09時05分04秒 | Weblog

我が家も朝食をヨーグルトで閉める。今日のは、我が家の庭で収穫したブルーベリーがたっぷりで、濃い赤紫に染まっていた。スプーンでよくかき混ぜて味わった。もちろん、キウイフルーツ入りも大好きだ。asakawaさんちみたいに。雨が上がって日照りが強くなった分、トマトが完熟して甘さが増した。皿に盛ったトマト片がたちまち空になるほどだ。これで腹が太り、白ご飯が2、3口で止まる。

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肉体がわたしというものではないとしたら

2016年07月23日 00時01分54秒 | Weblog

もしも肉体がわたしというものではないとしたら、わたしは時間を感じることはなかったであろう。空間さえも感じる必要がなかったであろう。形があって、目に見えて、重さがあって、そこに動きが生まれたのだ。それを初めてわたしと把握できたのだ。認識できたのだ。もしもわたしが肉体を活動の主体とすることがなかったのなら、わたしは時間も空間も認識せず、する必要もなく、従って、生まれることも老いることも病むことも、死滅することすらもなかったのだ。常に不生であって不死不滅だったのだ。変化を辿らず常住だったのだ。しかし、わたしは肉体であった。その間はわたしは生きるということを体験した。時間を変化させ空間を変化させる主宰者となった。

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