されば、称(なんじ)ら言下に自ら回向返照して、更に別処に求めざれ。身心(しんじん)と祖仏と別ならざることを知って、当下に無事なるべし。山僧が見処に約すれば、釈迦と別ならず。眼にあっては見るといい、耳にあっては聞くといい、鼻にあっては香を嗅ぎ、口にあっては談論し手にあっては執捉し、足に在っては運奔す。この何をか欠少すと、宗祖臨済禅師は呵せられたり。
臨済宗妙心寺派「宗門安心章」より
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お前さんらよ、仏はお前さんだよ。他にはいない。己の在処が仏の在処だ。ほかに在りようはない。お前さんがいま此処ではお前さんの宗祖さまだ。躊躇うことはない。光はお前さんに差している。これが悟りだ。お前さんに差し向けられている。この間を無事なのだ。なんにも遮ってはいないのだ。そのままで完了完成しているのだ。わたしが見る限り、お前さんが悟りを開いたお釈迦様本人だ。手も足も目も耳も鼻も同じように身体に従事して、ひたすら同じ役割をしている。欠かそうとしているものはない。欠けているものは何もない。そういって臨済禅師は大笑されて、びくつく弟子達お叱りになった。
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この「宗門安心章」は信徒宛に分かり易く書かれているようだ。でも、ねえ。さぶろうとお釈迦さまとは違うよねえ。同じだとしたらそりゃ傲慢だよねえ。しかし、お釈迦様が差別をされたはずはない。仏陀の智慧は平等智である。慈悲は平等慈悲である。差別はない。あったらそれはもう仏陀失格である。いやはや、しかし、禅の明言はふてぶてしいものだ。あっけらかんだ。躊躇がない。そのものずばりを突いて明るい。眩しいほどに明るい。