<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

己の在処が仏の在処だ

2016年07月04日 20時00分29秒 | Weblog

されば、称(なんじ)ら言下に自ら回向返照して、更に別処に求めざれ。身心(しんじん)と祖仏と別ならざることを知って、当下に無事なるべし。山僧が見処に約すれば、釈迦と別ならず。眼にあっては見るといい、耳にあっては聞くといい、鼻にあっては香を嗅ぎ、口にあっては談論し手にあっては執捉し、足に在っては運奔す。この何をか欠少すと、宗祖臨済禅師は呵せられたり。

臨済宗妙心寺派「宗門安心章」より

お前さんらよ、仏はお前さんだよ。他にはいない。己の在処が仏の在処だ。ほかに在りようはない。お前さんがいま此処ではお前さんの宗祖さまだ。躊躇うことはない。光はお前さんに差している。これが悟りだ。お前さんに差し向けられている。この間を無事なのだ。なんにも遮ってはいないのだ。そのままで完了完成しているのだ。わたしが見る限り、お前さんが悟りを開いたお釈迦様本人だ。手も足も目も耳も鼻も同じように身体に従事して、ひたすら同じ役割をしている。欠かそうとしているものはない。欠けているものは何もない。そういって臨済禅師は大笑されて、びくつく弟子達お叱りになった。

この「宗門安心章」は信徒宛に分かり易く書かれているようだ。でも、ねえ。さぶろうとお釈迦さまとは違うよねえ。同じだとしたらそりゃ傲慢だよねえ。しかし、お釈迦様が差別をされたはずはない。仏陀の智慧は平等智である。慈悲は平等慈悲である。差別はない。あったらそれはもう仏陀失格である。いやはや、しかし、禅の明言はふてぶてしいものだ。あっけらかんだ。躊躇がない。そのものずばりを突いて明るい。眩しいほどに明るい。

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果報の残りはまだある

2016年07月04日 19時48分02秒 | Weblog

わはは。取れたてのトマトを肴にして、焼酎を飲んだ。氷で割って。といっても小さなグラスの2杯だ。それでちびりちびりを味わって飲んだ。小鰺の天麩羅酢物も食べた。白ご飯はなし。代わりに無花果を一個舌に載せた。夕食を終わった。酔った。こんなことをしても一日だ。与えられた最上最高最良の一日を、さぶろうはこんなふうにして締め括った。悔い? そんなものはない。これで十分だ。果報の残りはまだある。明日に残して置こう。そういう傲慢がこの男には得意芸なのである。

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電話口にも出られると思う

2016年07月04日 19時40分45秒 | Weblog

もう大丈夫だと思う。電話口にも出られると思う。さぶろうは超のつく我が儘者である。ほとんどいつも不機嫌にしている。相手にそれを合わせてかかる。不機嫌なときには受話器も取らない。傲慢な奴だ。日が暮れかかったというのに、夏蝉が鳴いている。さぶろうはそれをぼんやりぼんやり聞いている。日は落ちた。もうすぐ闇になる。さぶろうは傲慢な奴だ。無茶苦茶だ。理屈に合わない。仏さまも菩薩様もそれをお怒りには成らないでじっとじっと見守っておられる。

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それでも不服を申し立てた

2016年07月04日 19時23分23秒 | Weblog

最高最善最上を与えられておきながら、それを最低最悪最下にしか受け止められないとしたら? 

ねえ、そりゃないよなあ。

与えた者にしてはこの反逆は辛いよなあ。でもそれも計算済みかなあ。なにせ相手は煩悩妄想無明の凡夫なんだよなあ。そんなにこちらの意図通りを受け取ってくれるはずがない。

だよなあ。

それでも愚痴らないかなあ。

愚痴らないよ。愚痴ったら、そりゃ、与えた者としての資格はなし、だ。

与えることにも無条件でなければならぬ。こちらの思い通りに跳ね返ってくることを期待してはならない。

それでも最上最善最高を与えることに徹していなければならない。

相手がそう言う無条件者だから、気楽だよなあ、受け取る側は。

なにしろ愚痴っていればいいんだからなあ。

つまらないつまらないと意って吐き捨てていればいいんだからなあ。

今日の最上最高最善は青空だった。青空の下にいて己の全部の我が儘をしていてもいいということだった。

それでもさぶろうは不服を申し立てた。

そしてそれを恥じた。

アメリカ芙蓉の大輪が咲いた。でかいぞ。こんな傲慢男のところになぞ咲かなくてもよかったのに、それでもそんなことなど一切計算外で、平明に晴朗に咲いた。

おんなの人のように色っぽいピンクの頬紅をしていた。

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どこもかしこもパーフェクトになっている

2016年07月04日 17時53分29秒 | Weblog

されば諸仏諸菩薩無辺の願海に摂取せられて、殊勝を求めんと要せざれども、殊勝自ずから至って、光明不尽の生涯を恵まるること決定(けつじょう)して疑いあるべからず。          臨済宗妙心寺派「宗門安心章」より

この経典を読み上げた。朗誦した。経典の指し示すところはおおよそこんなところか。さぶろうの合点だから間違いかもしれないが。しばらく眼前に広がったこの海に浸かって遊んでみる。波打ち際で砂遊びもしてみる。まったくもって児戯。戯れてみるだけだが。

一仏の願いだけでもその願いは海のように深く大きく広い。それが諸仏諸菩薩の総掛かりとなると、もう計り知れない。計り知れないほどの無量の願いに包まれているのだから、こちらが求めることが一切なくてすんでいる。だから、皆どこもかしこも殊勝最高最上だらけ、百点満点のパーフェクトになっている。智慧と慈悲の仏界の光明にあふれたところで我が生涯が進んでいるのである。加えて、光明無尽のその先に入涅槃が決定(けつじょう)しているのだ。諸仏諸菩薩の願いの海の深さ深さ、大きさ大きさ、広さ広さ。これではさぶろうが何を疑おうと疑いにもならないではないか。

禅は明るい。力強い。全肯定ではないか。「仏の願いに摂取され尽くしている自己」という安心は他力宗の受け取りに等しい。まさしく廓然無聖。聖すらも無用だ。からりからりと晴れ渡った夏空だ。異論の隙入る余地もない。

諸仏諸菩薩の放つ無尽光明のただ中で我が生涯を恵まれて行く身と決定しているというのだ。しかもこちらはそこに至るための努力は一切していない。剣も取らずに勝ち戦を戦い終えたようなものだ。ともかく不可思議なことに、殊勝の最高最上が向こうの方から至って来たのだ。まったく夢みたいな話じゃないか。

この抱腹絶倒、棚からぼた餅、生涯負け無し完勝完勝を、さぶろうはいつまで受け入れていられるか。退屈に思って放り出してしまいそうだ。

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日向雨が降っている

2016年07月04日 17時34分40秒 | Weblog

日向雨が降っている。光を目に見える粒にして落ちて来るように。雨雲の間間には青空。ビッキー族が囃している。ニイニイ蝉は耳を劈いて尖っている。僕はもうずいぶんサイクリングに行っていない。かっこいいスポーツ自転車がさぞかしなまっているだろう。でも行けそうにはない、当分は。顛倒したら、装具を嵌めたこの怪我の足では支えきれそうもないから。夕暮れが来て、ときおり夕風が吹き初めている。ちょいと涼しい。僕はメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」を聴いている。ほかにこれといってすることがない。せっかく鉄アレイを買って来てもらったんだから、(100円ショップで左右で200円。合わせて1kg)この際、室内運動くらいしたらよさそうなのに、三日坊主はそれもしない。どこまでも怠け者。だらしがない。おいおい、「結婚行進曲」が流れ出したぞ。彼女とは縁が無い僕にはまるでふさわしくない。

 

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それ以上それ以外を求めることはない

2016年07月04日 11時09分37秒 | Weblog

「それ以上それ以外を求めることはない」

それがよいことであるから/それで宜しい/わたしがそれをよいことにしなくとも/それがよいことであるから/それで宜しい/わたしはそこにそうしているだけで宜しい/それ以外を求めなくて宜しい/それ以上を欲しがらなくて宜しい/分かち合って分かち合っていられるようにしてあるものは/分かち合って分かち合って/それを楽しんでいれば/それで宜しい/わたしを主張して奪い合わなくとも宜しい/わたしの存在を誇張して膨れあがっていなくとも/静かにして/それをそれとして受け入れているだけで宜しい/全世界が自己肥大をし合うために/そういう戦をするために/わたしの欲望を膨らませないでもいいはずだ/風が野原を渡っているだけで/それで宜しい/鬼百合が咲き/杜鵑が鳴き/日がそこに射しているだけで/それで宜しい/それがそのままよいことなのだから/それを上回るものを期待しないでもいい/それ以上やそれ以外をわたしが求めることはない/

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「常楽我浄」は仏のお悟りの境界 その3

2016年07月04日 07時33分18秒 | Weblog

朝念観世音 暮念観世音 念々従心起 念々不離心

ちょうねんかんぜおん ぼねんかんぜおん ねんねんじゅうしんき ねんねんふりしん

朝(あした)に観世音菩薩を念じ、暮れにも観世音菩薩を念じていると、ついにその我が一念一念が観世音菩薩の仏心より起こったものとなり、醜悪罪悪な我の一念一念が仏心を離れたものではなくなってしまうばかりか、立ち位置の世界すべてのなにもかもが観世音菩薩の仏心に収め取られてしまっている。(さぶろうのいい加減な訳)

与仏有因 与仏有縁  よぶつういん よぶつうえん

(我には)仏と(等しい)因が有り、仏と(等しい)縁が有った。

(「与」は「・・・とともに」の意)

わたしは仏さまと同じ因で結ばれています。わたしは仏さまと同じ縁で結ばれています。わたしはそのことに気づかされてはっといたします。わたしは仏さまと同じ因縁の川の流れを流れています。

常楽我浄 じょうらくがじょう

それゆえ、畏れ多いことでありますが、因縁の結果として、観世音菩薩様とともにこのわたしもまた、仏さまのお悟りの境界である「常楽我浄」を共有いたします。仏さまのお悟りの世界は一過性のものではなく「常」であり、そこに苦しみを伴わないから「楽」であり、何ものにも拘束されないから「我」であり、煩悩に苛まれることがないから「浄」でありました。この涅槃寂滅のお悟りの内容をわたしはこの鼻の穴から呼吸いたします。

禅宗・真言宗の読経経典「延命十句観音経」より

そうだった、そうだった。そうだったと受け取ってさうろうは大はしゃぎ。まるで初めて海に入って水遊びをしたときのようだ。大はしゃぎしている。さぶろうに仏の因があり仏の縁があり、あろうことか、仏と同じ結果の果報が具わっていたのだ。どんな果報だ? へ。鼻の穴から仏のお悟りのエネルギーを平然と呼吸しております。

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キリギリス王国があるのかもしれない

2016年07月04日 07時13分24秒 | Weblog

ややややっ、キリギリスだっ。目の前のガラス戸を這って高足で優雅に歩いている。ガラス戸は縦の舞台。若々しいお一人様の軽やかなバレエのようだ。この辺りにはキリギリス王国があるのかもしれない。王子さまのお忍びにも見える。供は連れていない。朝の7時。雨は中休み中だ。

ここは人間の国だけというわけにはいかない。それぞれの生き物の王国が重なり合っている。幾重にも幾重にも。それぞれの王国を覗き見しているのも楽しい。王国の国人たちがさまざまな行事を展開することがある。この地上を共同に利用しているさぶろうは、そうした折、はっとして目が大きく見開く。

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今日も梅雨空が覆っている

2016年07月04日 06時39分33秒 | Weblog

7月に入って今日は6日目。まだもって梅雨空が続く。からりと晴れたかと思ってほっとしているとすぐさま暗雲が垂れ込めてきて土砂降りになる。雨滴が矛先になって大地を叩き付ける。繊細な胡瓜の葉っぱに穴が開いてしまうのではないかと思うほどの鋭い雨矛を片手に、雨の韋駄天が我が村里を真っ白にして疾駆する。今日はどうだろう。天空の怒りは収まるだろうか。

さぶろうの怪我の足はずんぐりして赤黒く腫れている。鬱血は散らない。ぱんぱんに張っている。できるだけ足を心臓の位置よりも高くしていようとする。こうしているとやや楽になる。でもこの姿勢は長くはもたない。お布団の足元に枕を二個積んでここにだらしなく足を載せているしかない。そろそろ1か月が経とうとしているのだが。

もちろん外に出てはいけない。しばしの農作業もできない。酸漿(ほおづき)の葉っぱが虫に食べられてスカスカになって来ている。なんとか食い止めて、お盆の仏壇を飾りたいと思う。殺虫剤散布を急がなければならない。気持ちが焦っている。雨嫌いのトマトは、数株だが、立ち枯れが進んでいる。せっかく大玉を着けているというのに。これは殺虫剤でも食い止められそうにないようだ。

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