昨夜は大量の羽根虫襲来に大騒動した。網戸からの侵入だ。白い布団がたちまち斑模様になった。殺虫剤散布で対抗したが、勝ち目がなかった。電灯を消すことにした。首にも腕にも顔にも這い回る。もぞもぞする。ガラス戸を閉めた。今度は蒸し蒸し蒸して困り果てた。それにしてもあれだけの羽根虫がいったいどこから湧きだして来たんだろう。いつもは数匹の家守がガラス戸に張り付いて寄せ来る虫や蛾どもを退治してくれているが、あれだけ大量であれば彼らの手にも負えなかっただろう。
奈良へい行こうか行くまいか。迷っている。怪我の足はそれ相応に回復をして来ているのだが、装具を着けたまま長くは歩けそうにない。杖を頼りにしているとしても。新設成った薬師寺食堂（じきどう）に阿弥陀三尊の大きな仏画が掲げられた。これを見たい。折角だから奈良国立博物館にも足を運んでみたい。聖徳太子に因む法隆寺金堂の、あの美しい仏さまにもお会いしたい。若い頃に訪ねたきりの唐招提寺にも。浄瑠璃寺にも。往復新幹線。ビジネスホテルに３泊して、随時タクシーを頼む。これでどうだろう。経費は１０万円をくだらないだろう。働いてもいないのに、そんな大金があるのか。これが大問題だ。暑いので着替えのシャツがたくさん必要になるだろう。寂しさを癒す本も欠かせない。背中のリュックに詰められるだろうか。あれやこれやが心配になる。意を決そうか。もう少し待つとしようか。足の甲の赤黒い腫れが治まってからにしようか。小さな頭が悩みのジャングルになって来る。
おはよう。寝苦しい夜だったね。蒸し暑かったね。じとじとだったよ。扇風機をずっと回してた。夜明けごろになってやっと涼しい風が流れ出した。その間何度も寝たり起きたりを繰り返した。でももう大丈夫。夜は終わった。朝が来ている。空がからりと晴れている。光が隣家の屋根を浮かび上がらせている。蝉が鳴いて万物を目覚めさせる役を買って出ている。朝顔がトマトに巻き付いて咲いている。純白の中心だけに紅が差されている。台所ではお味噌汁を作る包丁のリズミカルな音。僕は書斎を音楽堂にして、モーツアルトのセレナーデ第１０番「グラン・パルテイータ」第３楽章を聞いている。今日も亦暑くなるのは必至だよ。ガラス戸の向こう、南瓜の黄色い花ラッパが予報を出した。
