夜中の10時半、腹痛は治まった。よかったっ。ほっ。ちょっとでもどうかあると、死ぬんじゃないかと案じる。小心者。不調不具合を立て直して、パーフェクトになろうとする肉体の自治能力に敬意を払う。そして全体のバランスを取り戻した。偉いぞ、偉いなあと撫でてやる。お腹の上をゴシゴシ。
夕食後、お腹が痛い。昨日もだった。トイレに通う。どうも胃腸が弱い。細菌侵入にもすぐに反応する。過敏性腸症候群かも。お風呂で温めたのに。効き目がなかった。ジクジクジクと痛む。食欲も乗らない。
ま、こんな日もあるでしょう。気にすまい。
伊万里市に着いた。お昼をする。山小屋ラーメン屋を見つけた。入って食べた。豚骨ラーメンだった。これから梅林に行きます。気温は11℃。寒くない。梅も開いているだろう。
日が射して来てぽっかぽか陽気になってきた。これは、じっとしていられない。これから伊万里の梅園へ行く。もう満開を迎えているだろう。ひとりはさみしいけど。しかたがない。いっしょをする者はいない。ここは広大な梅林だ。それから赤い鳥居の稲荷神社に詣でてくる。ここは少し離れた山代町にある。ぶらりぶらりしよう。夕方には戻って来られるだろう。往復4時間半は見ておいた方がよさそう。高速道はない。
風が少しあるようだ。寒くないようにして行こう。
こういうときに、傍に立って、いっしょにうっとり花を愛でてくれる人がいたらいいのになあ。ただし、気を遣わないでもすむようでなければならない。という条件を満たす者はいないので、諦める。束縛するのも、されるのも嫌いだ。つまりどうしようもない我が儘者ということだけど。
5
傲岸不遜なわたしである。なかなかどうして一筋縄ではいかぬ。思い上がっているのである。強がっているのである。偉ぶっているのである。生きているのはその俺様のひとり力量によるものだと断じ切って、はや念仏の声が途切れ途切れになる。
(我が儘が申し訳ない。まだしらを切ろうとする己がある。それを追いかけて来て念仏がわたしを摂取しようとする)
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南無と帰命する一念の処に、発願廻向のこころあるべし。これすなはち、弥陀如来の凡夫に廻向しましますこころなり。
(従順のこころなき悪業のわたしへ、阿弥陀如来が全功徳を廻向しまします)
4
阿弥陀仏の功徳をもらい受けるのはわたしであった。そのハタラキの発信源の仏を念(おも)い、南無し帰命し、念仏する。
(小さく細く念仏する)
3
阿弥陀仏の誓願には「あなたを救う」「必ず救う」とある。だから、その「あなた」のわたしがいなければ、仏の誓願は成り立たないのである。わたしが救われなければ阿弥陀仏は仏とはなれないのである。廻向切符は往復切符であるわけが此処に在る。
(もったいなや)
2
「廻向(えこう)」は、「廻し向ける」ことである。
阿弥陀仏の放った誓願の矢の落ち着き処はわたしたち衆生である。阿弥陀仏の廻向は、Uターンするのだ。わたしが誓願の心を受領したということが念仏になってUターンしていく。だから、念仏さえもが他力である。自力ではない。仏のお慈悲のハタラキが働いたのである。
(それを聞いても聞いても念仏の心が動き出さない、わたしには)
1
発願は阿弥陀仏の発願である。阿弥陀仏が願いを発動されたのである。願いが向かうところはわたしたち衆生である。凡夫のわたしである。わたしが「南無阿弥陀仏」と念仏して帰命すれば、これが受信の証明になるのである。「たしかに受け取りました」の宣言となって阿弥陀仏に戻って行く。
(そう聞いても聞いても、わたしの念仏は起こらない)