今日は久しぶりに北の畑まで行った、一輪車を押して。一輪車には、座椅子、鍬、肥料、農機具、水の入ったペットボトル、手袋、そして種ジャガ芋の残り、豌豆の苗(グリーンピース苗)を載せて。ゆっつらあゆっつらあと。頭には手拭いをしっかり巻いて、鼻には花粉症マスクをして。お天気は日照りでもなく、雨降りでもなく、その中間の薄曇り。暑くも寒くもなかった。まずはジャガ芋を植え付けようと、畑の一角の草ボウボウの草を抜いた。小さな鍬を振るうので指に血豆が出来た。それがすんだら、豌豆の苗を植え付けるために、またもや草抜きの作業をした。血豆が破けてしまった。これは種から蒔いたので数が多かった。夕方日が暮れるまで畑に居て農作業をしていた。これくらいのことで、と言われそうだが、「働いたぞ」という実感がちょっとだけ得られた。
おはようございます。今日は日曜日です。といっても、わたしにとっては、いつもが日曜日なのですから、どんな特殊性もありませんが。それでも、なんだか、昔の名残が残っているようで、この日曜日の冠を被った日は、どこか緩みのようなものがたゆたっています。寛ぎの養分要素が比較的高くなっているような気がします。そういう日曜日に腰を据えています。これは状況の判断です。では、この日曜日になるをするのか。行動を起こしているわけではありません。ちょっと曇っています。家族の者はみなそれぞれの行動に出て行きました。わたし一人が残っています。いつもの留守番です。
今日は当県では桜マラソンがあります。沢山の人たちが菜の花の中を走ります。サクラはまだ満開になってはいないでしょうが。あちこちで交通規制がされています。わたしはそれを縫うようにして、ゆっくりサイクリングをしたいと思っています。お昼前に決行するか、それとも午後に入ってからにするか。まだ腹を据えてはいません。
わたしが、昨日に留まったことはない。一度でも。わたしは今日にしかいない。明日を生きることもない。わたしが明日へ行ったことは、これも一度もない。わたしは常に今日の存在。今日の内側でしか生きられない。吸っているのは今日の空気。新しい今日の新しい空気。古くなった空気を吸ったことは、一度もない。
明日だったのが、今日になっている。今日だったのが、で、順送りに、昨日になってしまった。時間の水車が回る。ザブーと水を受けて、またザブーと水を流して行く。時間の水を。明日起こることだったのが、次々に今日の内側で起こって行く。わたしはそれを見ている。ではわたしは水車の外側にいられたかというと、そうでもなくて、わたしもまた組み入れられて、今日の新しいわたしになっている。では新しくなってよかったことになるのだが、そうでもなくて、古く古くなって行く。古くなりながらも、健気に新しくなった自負を持とうとしている。いつもいつもいつも、わたしは、そういうカラクリで、今日を生きている。