<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

己を縛っているものがなくなれば一挙にかるくなれる 山頭火を読む その5

2018年03月29日 16時01分40秒 | Weblog

死ぬと言ってもそのままでいいのである。この世に生きた証の遺言遺偈も無用になる。夕べ頂いて来た芋の蔓がここにある。ひらひらして小さいが、泰然としている。うん、これでいいのだ。芋の葉を蓮の葉にすることはないのである。それはそれ自体でいいのである。

彼は濁ることも澄むこともある、と激白する。濁りは時がたてば大概は澄んでくる。筆者なんかはそれをまた引っ掻き回すから、またまた濁ってまったく澄むときがない。どうしようどうしようとそればっかりだ。

濁ったらそれに応対しない、これがコツだ。濁らせたままにしておく。右往左往をしない。濁りの外に出て一句を作る。彼はそうしていたのだろう。わたしが死んでも死なずにいても風は吹いて来る。「わたしは実は偉かったのだぞ」とわざわざ書いておかなくともいいのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

己を縛っているものがなくなれば一挙に軽くなれる 山頭火を読む その4

2018年03月29日 15時31分23秒 | Weblog

死をまへに 涼しい風

おもひおくことはないゆふべの芋の葉ひらひら    2句とも 種田山頭火

「あるときは澄み、あるときは濁る。澄んだり濁ったりする私であるが、澄んでも濁っても私にあっては、一句一句の身心脱落であることに変わりはない」と書き添えてある。句に説明が加えてある。めずらしいことだ。

「心身脱落(しんじんだつらく)」は道元禅師の言葉。禅者の行き着く悟りの境涯である。「身も心も一切の束縛から解放されて絶対的な自由を獲得すること」と電子辞書にはある。己を縛っているものがなくなってしまえば、一挙に軽くなれるだろう。仏陀はこれを「大いなる放棄」と呼んだ。得なくなればいいのである。欲しがらなくなればいいのである。

 

己を縛っているものの代表格は、身心である。これがどんなに己を右へ左へ走らせていることだろう。身心は歓楽の巣窟でもあるが、苦悩の元凶である。これが己から抜け落ちてしまうのである。抱えていた荷物を放り出せばすっとするだろう。涼しい風も吹いて来るだろう。

(続く)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山羊は一声である これで覚悟の全部を言い当てている 山頭火を読む その3

2018年03月29日 15時12分43秒 | Weblog

照れば鳴いて曇れば鳴いて山羊がいっぴき       種田山頭火

そういえば、昔は山羊の乳を飲んでいたなあ。牛乳は飲めなかった。山羊の乳を飲んでいた。我が家にもいた。小学校から帰ってくると、それをつれて草地に連れて行った。なかなか言うことを聞いてくれない。親の山羊は頑固なのである。おまけに角で突いてくる。難儀した。雌山羊はお乳が大きかった。乳房に大きな血管が浮き出ていた。これを搾る。暖かい布巾でよく拭ってから。何処の家にも大概居たから、メーメーと村中でよく鳴いた。句の観賞よりも先にこんな体験を思い出してしまった。

照っても曇っても山羊には同じ事だ。お構いなしというところか。同じようにメーメーと鳴く。これしか知らないのだからしようがないのだ。この発話にすべてが込められている。人間は、不自由だ。照ったら照ったで話し声が違う。曇ったら曇ったで別の言葉で発話する。いちいちうるさい。語彙が一杯あっていいだろうと思うが、それだけの悩みがついて回る。悲しみ喜びが錯綜する。ごった煮になる。それで迷わされる。なかなか悟れない。これでいいという覚悟に至り着かない。始終、不足している。不満を持つ。山羊は一声である。これで覚悟の全部を言い当てている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水音は生きろ生きろと命じてくる とどまっているな、動き出せと迫って来る 山頭火を読む その2

2018年03月29日 14時42分41秒 | Weblog

乞ひあるく水音のどこまでも      種田山頭火

句は短い。短い枯れ木の、木切れにして放り出されている。それを読もうというのだから、骨が折れる。でも、響いてくる。木切れに風が当たってそこから音が出ているのだろう。響いてくる。

水音は、喉が渇いたときに飲む谷川の水の、その潺潺と流れる水音だ。命の水だ、なにしろ。これで命が繋がれていくのだから。水音は「生きろ生きろ生きろ」と命令して来る。「とどまっているな」「動き出せ」と迫って来る。乞い歩いて行くその先へ先へと先回りして、耳へ、声を響かせてくる。彼は歩く。歩く、歩く。何かに促されるようにして歩く。一所(ひとところ)に留まっていない。

銭を乞い、食を乞うのは、「いただきまする」が分かるためだ。精進と忍辱を経巡って、「いただいていただいて生きいている」ことが領下されるためだ。「棄てられていない」という事実に涙するためだ。仏陀に行き着くためだ。法に行く着くためだ。大悲に抱かれているということを体が覚えるためだ。仏道者行者がこれを行ってきた。仏法は、智慧の静寂のみにあるのではない、声を立てる慈悲の実践でもあるのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疑心暗鬼の暗鬼が姿を消したのだろう 山頭火の句を読む

2018年03月29日 14時22分08秒 | Weblog

山しづかなれば傘をぬぐ      種田山頭火

昭和9年、山頭火は其中庵(きちゅうあん)に落ち着く。理由は? 「山が静かだったから」だと俳句は答えている。放浪の旅を続けてきた。いささか疲れたこともあるだろう。山は故郷の山だろうか。旅の途中で見ていた山だろうか。どっちでもあるだろう。山を静かに見ていた山頭火が静かになり得たのだろう、きっと。たいていの山は静かにしているはずだ。お喋りは苦手かも知れない。少なくとも、火の山を除いては。多弁ではない。笠は頭に被るもの。日除けにもなるし、雨避けにもなる。被っていると人の目を真面(まとも)に受けなくてもすむ。己の暗さを見破られなくともすむ。彼は笠を脱いだ。脱いだと言うことは己の暗さが払拭されたからなのだろう。

故郷の山であれば、「お帰りなさい」「疲れたでしょう」「しばらく休みなさい」と小さく声を掛けてくれたかもしれない。それに従うだけの従順さが、山頭火に生まれて来ていたのだろう。

心中のもやもやが晴れたのだ、きっと。疑心暗鬼の暗鬼が姿を消したのだろう。彼は大地にどっかりと座り込んだ。そしてこの句を得た。涙が目尻から滴った。五月の若葉が山を埋め尽くしていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白い蝶がもつれあうようにして飛んで行った ラスト

2018年03月29日 14時07分07秒 | Weblog

昨日は午前中、体の調子がややヘンだった。なんだか違和感があった。まず頭の左半分の頭頂部分が痛む。外皮ではなく、奥の方だ。何度かずきんとくる。連続はしていない。それから胸の心臓あたりがきゅんとなった。彼女が出来たというときの「胸きゅん」ではない。ああそろそろ終わりの時なのかなあ、その合図を知らせているのかなあなどと思った。今日は、朝起きてすぐに一度感じただけで、後は、その"変態”が遠離っている。

白い蝶はもつれあうようにして一体何処へ飛んで行ってしまったんだろう。今度は誰の視界を飛んでいるのだろう。神さまのそれかなあ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白い蝶がもつれあうようにして飛んで行った その5

2018年03月29日 14時01分37秒 | Weblog

夕方になったら外に出て行こう。昨日の夕方、可成りの時間、道路沿いに置いている細長いプランターとその周辺の草取りをしていた。こざっぱりした。その続きをしよう。まだ時間が残ったら、ズッキーニと丸鞘オクラの種を小さなポットに一粒づつ蒔いてみよう。昨日は日中23℃もあったから、もう霜が降ると言うこともあるまい。ズッキーニの種は長くて青い色のと丸くて黄色いのとがある。昨年は成長がよくて、よく食べた。人様にも差し上げるほど沢山収獲した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白い蝶がもつれあうようにして飛んで行った その4

2018年03月29日 13時55分32秒 | Weblog

客人が来られるその前は、前日スケッチしていたものを、クレヨン水彩で色塗りをした。椅子に座って、立ち机にスケッチ帳を広げて。ヨガ体操のラクダのポーズをスケッチしていた。体操する部屋をバックに書き加えた。鏡に映っている姿も書き加えた。これで絵らしくなった。ただし、体の曲線を前面に大きく据えたので、顔の表情がうやむやになっている。もういいや。一休み。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白い蝶がもつれあうようにして飛んで行った その3

2018年03月29日 13時53分52秒 | Weblog

お昼は一人で食べた。昨日の夕食の残りの焼きビーフンが一皿残っていたので、これを食べた。電子レンジで温めてから食べたらいいと伝言があっていたが、面倒臭くてそのまま食べた。これは自分が昨夜食べ残していたもので、お皿に三分の一位だった。それでも十分だった。肉体労働はなんにもしていないのだから、腹も減ってはいない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白い蝶がもつれあうようにして飛んで行った その2

2018年03月29日 13時51分17秒 | Weblog

午前中は客人があった。お縁側の椅子に掛けて、お茶と金鍔のお菓子を出して、応対した。八朔蜜柑もお出ししたが、これには手がつかなかった。帰られるときに、数日前に黄金生姜の種芋を買って来ていたので、珍しいものだから、半分差し上げた。といっても僅か数個だが。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする