<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

もういつ寝てもいい 何もすることはない 特別なことはない

2018年03月16日 20時48分23秒 | Weblog

今夜は寒くなるのかな? それとも暑くなるのかな。分からない。夕方は風の音がしていた。寒そうな音がしていた。

夕食もすんだ。お風呂にも入った。もういつ寝てもいい。することもない。特別なことはない。読経をするほかは。

仏説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経を声に出して朗々と読む。どこを読んでも、あなたを助ける助ける助けると述べてあるから、わたしは即そのあなたになる。浮かれる。

今日はいい日であった。病気の宣告を免れた。入院を免れた。幾分覚悟もしていた。うひひひ、ひひ。だわい。ワイワイ浮かれてもよい。しかし、なあ、免れないときも来るだろうから、静かにしておこう。

もういつ死んでもいい。何もすることはない。特別なことはない。そういうときも間近に迫っていよう。殿、お覚悟を、というところか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほんものではない 嘘者である 偽者である ラスト

2018年03月16日 20時20分52秒 | Weblog

15

仏でない者が仏の活動は出来ない。利他の救済活動は出来ない。どんなに苦しんでいる人を見かけようとも、馳せ参じることは出来ない。仏ではないからだ。人間界の苦しみも悲しみも喜びも、我見によって見誤ってしまうからだ。それだとミスリードして混乱を広げかねない。

16

ほんものにはなれない。嘘者である。偽者である。紛(まが)い物である。わたしの場合は。仏ではない者は仏の活動が出来ない。仏の顔をして利他をすることも躊躇われる。できない。ここで行き止まりである。「いそぎ仏となりて・・・」の「急ぎ」は死後のことである。

浄土系の思想・実践にもいろいろあるようだ。「この世に生きている間」をこそ最重要事項だと捉えて社会参加活動されている方のことも多く聞いている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほんものではない 嘘者である偽者である その5

2018年03月16日 19時59分16秒 | Weblog

12

仏陀であればここはどう考えられたであろうか。そう言う推論推察をすることがある。いつも、しかし、<・・・であれば>の条件付きである。覚者の仏陀にはなれない。完成者にはほど遠い。

13

弘法大師は「即身成仏」を提示された。いまこの身このままが仏だ、と。救済者の仏として果たす社会救済事業にも熱心だった。禅宗の人たちも成仏を説かれる。悟りを開く修行をされる。禅を組んで座っている姿がそのまま仏だとも言われる。仏のダンマによって、「わたしがいま仏として生きている事実」を尊重される。

14

浄土系の考え方では、わたしの知る範囲では、大凡が「即身成仏」ではなく、「未来成仏」に傾いているようだ。仏に成ってまたこの世に戻ってくるときでないと、仏としての救済はできないらしい。未来成仏とは往生成仏のことである。極楽浄土に往生してそこで成仏を結果することに重点が置かれているように思われる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほんものではない 偽者である 嘘者である その4

2018年03月16日 19時51分34秒 | Weblog

釈尊は仏教を説かれたのである。「あなたもわたしと同じように仏陀になれる」と説いたのである。「わたしだけが仏陀である」「後の人はわたしについてきなさい」とは言われなかったのである。仏教の一大特色である、ここは。

10

「仏として生きているという事実に目を覚ましなさい」「仏になれる悟りをいま此処で開きなさい」「仏への完成の道を堂々と進みなさい」と教えられているのである。

11

どんなに教えられても、わたしの場合は、二の足を踏むしかない。

何処をどう押し出したところで、ほんものにはなれない。嘘者である。偽者である。偽り者である。ふりをしていてもじきに馬脚が出る。化けの皮が剥がれてしまう。これはどうしたことであろう。何故仏陀の声に背くのか。

仏のダンマによって、「仏としてわたしが生きているという事実」を覆してしまう。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほんものにはなれない 偽者である 嘘者である その3

2018年03月16日 19時30分54秒 | Weblog

「生き仏さま」「生仏(しょうぶつ)」という仏さまも想定されている。

例えば、千日回峯行を満行されたら、人々がそういう目で迎えて崇める。救済を依頼する。この世で仏に成るという悲願を達成したと目されるからである。

逆に、「わたしは仏には成らない」と宣言された方々もおられる。菩薩様である。仏には成ったが、同じく娑婆世界に足を置いて、まずは苦しんでいる人々の救済をするためである。

「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」の実践である。これは、<自らは未だ(仏の世界に)渡るを得ずして、先ず他者を渡す、という大乗仏教の実行実践のことである。利他救済を、自己完成・自己救済の前に置いているのである。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほんものではない 偽者である 嘘者である その2

2018年03月16日 19時12分41秒 | Weblog

わたしの場合だけかと思ったら、成仏、仏と成ることは、だから多くの場合、一般にはどうも先の話、つまり未来の話になっているようだ。

未来に仏になるから、今現在は仏ではない。謂わば予備軍である。練習生である。だから、そのほんものの覚悟も浅い。その責任も問われないで済む。慎ましい態度を取っている方が何事も受けがいい、そういうところもある。

反対に、堂々と人前に出て「わたしはいま仏だ」「あなたがたを救う」と宣ったら、たぶん気が触れている者とされるだろう。

しかし、ほんとうは、仏に成るのが仏教である。ならないで終わるために、仏陀(=釈尊)が教えを説かれたのではない。あくまで成仏するためである。いまか、いまでないか。永遠の未来にか。成る時期に余裕が持たされているが。成仏するための仏教である。

成仏しないと利他の救済ができないのである。未熟では法は説けないのである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほんものにはなれない 偽者である 嘘者である その1

2018年03月16日 17時59分16秒 | Weblog

ほんものにはなれない。偽者である。偽者と言わなくても別の言い方はないか。

人真似、猿真似の者である。

舞台芸人である。なったふりをしている。舞台に立ったところだけで、其処を下りたら別人である。

でも、芸人がふりをしてくれるので、われわれはお芝居が面白く観ていられる。そういうところもある。

ほんものにはなれない。ほんものの仏にはならない。菩薩にもなれない。阿羅漢にもなれない。聖者にも聖人にもなれない。沙門にも比丘にもなれない。

だから、やっていることの大半は物まねである。なりすましているのである。

善人の振りをする。偽装する。仏道修行者のふりをする。宗教心のあるような振りをする。あとで、ちゃっかり赤い舌を出している。自己嫌悪もいいところだ。

天にも昇れるような正義者発言をしている一方で、限りなく地獄行きの悪行をしている。己の内の両極に距離がある。これじゃ、徹底が出来ない。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あしたを孕んでそれを瞬時に産み落とす妊婦さんって美人かなあ

2018年03月16日 17時44分28秒 | Weblog

0時とふ時間の宮に湯を沸かしあしたを産める妊婦がひとり     薬王華蔵

誰なんだろうね、ほんとに。明日を産んでいるのは誰なんだろう? 産むと言うからには妊婦さんがいるはず。どこに? 時間のお宮さんに。0時という時間は、1秒を過ぎても行けない。過ぎたら明日になっているから。限りなく短い時間に妊婦さんが一人いる。お腹を大きくした妊婦さんが。それを絵図に描いたらおもしろいだろうなあと思った。湯を沸かしているのは、では誰か。家族の者だよね。檀那さんなのかな。

僕の母親は助産婦だったので、荷物持ちの小僧としてついて回った。なぜか、どこの家でも赤ちゃんが生まれると竈に火を焚いていた。分かった。赤ちゃんに産湯を使わせるからだったんだ。産湯って、ぬる湯だよねえ。限りなく。じゃ、お湯はちょっとでよかったんだろう。

明日を孕んでそれを瞬時に産んでくれる妊婦さんって、偉いよねえ。豪傑だよねえ。美人なのかなあ。どれくらいの大きさなんだろう。どんな顔をしているんだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何故を問い続ける そこに幸福がある 何かと触れ合えるからである

2018年03月16日 17時29分16秒 | Weblog

海に沈む夕日はなぜか溺死せず そのなぜを問ふ幸福がある      薬王華蔵

でしょう? 溺死しない。溺死していたら朝には昇ってこられない。でも昇ってくる。あの大きな海に沈んでいくのである。深々と。そして消える。何時間も海の底に消えたままでいる。

でも、本当は違う。海の底に死んだわけではない。手品証をすればそうである。これは手品に見えて手品ではないところが面白い。地球が回っていただけである。自転をしていただけで太陽は動いていなかったのである。

でも、それで絵になったのである。感動のシーンが出来上がったのである。人間は感動する。宇宙を感動する。神さまの技だと思って感動する。神さまが奇跡を起こされたと信じる。天照大神になる。ギリシャ神話になる。短歌も詩も絵も写真も出来る。

なぜを問い続ける。そこに幸福がある。宇宙の神秘を問う。そこにも幸福が燃え出してくる。何かと触れ合うからである。(なんなんだろう、これはいったい?)触れ合うと其処に幸福が誕生する。昇ってくる大陽のように。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春まだ浅い、僅かばかりの日射しが老爺の膝の上で遊んでいたっけ

2018年03月16日 17時12分07秒 | Weblog

ブランコの揺れる小さな公園の石のベンチのわたしの真昼     薬王華蔵

これは今日の新聞の読者文芸にとってもらった歌。嬉しい。いままでほとんどとってもらったことのない選者からとってもらっていたから、なおさらに。(正確には一度ある、遠い遠い昔に)

<だからどうなんだ>ということを述べていない。そこがよかったのかもしれない。詠み手の主張があるのがいいのか。ないのがいいのか。それを読んだ読者が、各々の主張で歌の言わんとするところを空想すればいい。

ここは小さな公園である。僕は此処でお昼を過ごした。石のベンチがあってそこの上に弁当を広げて、一人でむしゃむしゃ喰った。老爺の傍には誰も居なかった。ブランコが風に揺れている切りだった。これはとりとめて特徴のない老爺の、とりとめのない暮らしぶりである。ここでこうやって暫く老いの一日を生きたのである。

春まだ浅い日の、わずかばかりの日射しが老爺の膝の上で遊んでいたっけ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする