わたしを濁流にしているのは何故か。
源流がそもそも濁っているのか。途中から濁って来たのか。今目の前に来て初めて濁ったのか。
浮き沈みしつつ、草が流れ、藁が流れ、枝が流れ、木株が流れて行く。
海へ海へと向かって行く。何故もいっしょに海へ向かって行く。
わたしを濁流にしているのは何故か。
源流がそもそも濁っているのか。途中から濁って来たのか。今目の前に来て初めて濁ったのか。
浮き沈みしつつ、草が流れ、藁が流れ、枝が流れ、木株が流れて行く。
海へ海へと向かって行く。何故もいっしょに海へ向かって行く。
わたしを流れる川の濁りが少しでも澄むことがあるのか。濁流が流れ下る。それを見ている。空は青く、あくまでも青い。
すまんなあ。すまんなあ。すまんなあ。
何が済まぬのか、誰に済まぬのか、どうして済まぬのか、わからないが、とにかくすまぬなあを言い続けていたい。
これでわたしを流れる濁りの川が、少し澄んでくれそうな気がする。
客人あり。客人と意気投合して、飲んでいた。11時、お開き。駅まで家人がお送りした。あれこれお土産を頂いた。楽しいひとときだった。
菜の花の畑(はた)にこぼれたほんのりは黄金(きん)の色だよ 蝶がまみれる 薬王華蔵
*
ほんのりとした生き方に憧れる。強烈な個性につきあえないからかな。間に入り込んで互角にわがことを主張をするのは、疲れる。そうするよりは引き下がっていたい。もういいよと溜息をつく。これは老爺の必然なのかも知れない。
それよりか、ほんのりの菜の花の香りと色にまみれる蝶のようにしていたい。そこに春の日のしばらくをまみれていたい。菜の花の色と香りのほんのりを春の日が、きらきら照らして、黄金(きん)にしている。
ほんのりとしているもののまんなかにいればよかろう 菜の花つづく 薬王華蔵
*
これは落選したわたしの短歌の作品。
この頃どんなものを作ればいいか分からなくなってしまった。といって、いままでに分かっていたというのでもない。ずっと五里霧中だけど。いよいよ霧が深くなってきた。
*
文藝春秋などでときおりプロの歌人の作品を読むことがある。でも、それが秀歌名歌であるのか分からないでいる。そうとも思えるし、そうとは思えないことも多い。そうであろうと思って掛からねば秀歌名歌に聞こえて来ない。短歌というのはなんなのだろう?
*
「ほんのり」は電子辞書にはこうある。「色・香り・味などがほどよく薄くて、わずかに感じられるさま」ほんのりと赤みが差す、などの類例がある。
ほんのりした香り、ほんのりした色、ほんのりした味。わたしはこの日、ほんのりした生き方に身を沈めていたかったのだ。それでこの歌が出来上がった。強烈な個性を香らせるのもいいが、穏やかに慎ましく目立たずにしているのもいいものだ。それを「ほんのり」の花瓶に投げこんでみた。だったら、そういう生き方をしている菜の花の中に居たらよかろう。そういうふうに思いが発展した。何処までも菜の花畑が続く、そこに埋没していたらよかろうと思った。
珈琲は濃いのがお好きか? 薄いのがお好きか? わたしは薄いのが好きである。理由は? 聞かれると決まって「いやあ 飲む人本人が薄いもので」と答える。わたしは濃度の薄い人間なのである。味が希薄だ。そういうふうに自己判断している。だから飲むものが濃いとわたしが吸い取られてしまいそうな不安を覚えるからかもしれない。
こってりしたのが嫌いだ。けばけばしいのが嫌いだ。てかてかしたのが嫌いだ。押して押して押しまくったり、その逆に引いて引いて引きまくったりも嫌いだ。極端を嫌う。
「春のブランコ」 山鳩暮風
風が仏陀だ
空が仏陀だ
春の野原がそのまま仏陀だ
彼らは完成者である
完成に目覚めた者である
それでこうも易々と
朗らかにしていられるのだ
わたしはモンキチョウ
春の野原で風に乗って
ゆうゆうと大空へ行く
こうしてわたしも完成する
心配しなくていいんだよ
わたしはわたしを包むこの
すべての豊かさの中にいて
それに目覚めていれば
いいんだから
目覚めた空とわたしは対等
目覚めた風とわたしは対等
春の野原とわたしは対等
これだけの対等があれば
わたしはすいすいと楽々と
仏陀のブランコが漕げる
*
この作品が、めずらしくめずらしく今日の新聞の読者文芸詩部門の1席となっていた。久しぶりの入賞だったので、嬉しかった。選者評も嬉しかった。