<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

白い菜だから、白菜だったのだ 

2018年03月01日 18時18分35秒 | Weblog

白菜は白い菜と書く。やっとそれを合点した。お隣は農家である。畑に白菜が育っている。しっかり巻いている。それだけ重さもある。我が家の作品を不愍と思われたのかも知れない、上等白菜を分けて頂いた。

我が家のはそうではない。巻いていない。横広がりに広がっていて大陽をしっかり受け止めていたせいか、白くない。濃い緑だ。栄養たっぷりに見えるが、どうなんだろう。我が家の白菜は、だから、緑菜(りょくさい)というべきかもしれない。

今晩の料理にお隣の白菜が切られている。上品な色、白である。そうかあ、それで白菜だったのかとここでようやく気がついた。遅い。70歳を過ぎて初めての気づきである。

たしかに種は、8月の終わりに、白菜の種を買ってきて蒔いた。間違いはないが、育て方が悪かったのだ。これでは農家にはなれない。売ろうとしても買ってくれる人はおるまい。

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春を待っていたのは人間ばかりではなかったようだ その2

2018年03月01日 18時17分24秒 | Weblog

一株の種から10株に増えていた。死んだようにしていたのに、一冬で、子孫繁栄を上手に実行していたので、「きみは偉いなあ」「めげなかったところが偉い」などと感嘆詞つき褒め言葉を連発した。泥を落として洗った。一株ずつに分けて枯れたところを落としてきれいにした。根を切って洗い直した。見事な小葱パワーに驚嘆した。

それから今度は鼻水を啜り啜りしながら、丸椅子に座ってこれを移動させながら草取りを始めた。いや、この雑草も春を待っていた一人だった。茎にも葉にも根にも、それだけの力が満ちていた。生き生きとしていた。

作業をしていると、風を寒いとしなかった。案外この老爺はしたたか者かも知れない。

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春を待っていたのは人間ばかりではなかったようだ その1

2018年03月01日 17時57分30秒 | Weblog

お昼、畑に出た。風が起こって寒かったのに。畑に出るとこの老人は生き返る。シャンとなる。元気がとことことこと歩いて帰ってくる。不思議だ。

大きく成長した長崎白菜をどっさり収獲した。泥と根株を落として、外の水場できれいに洗った。菜の花が咲こうとしているので、これを阻止したのである。こんなに沢山は我が家では食べられない。明日人様に上げようと思う。

それから小葱を収穫した。春を待っていたのは人ばかりではなかったのだ。小葱が、この一週間の間に、見る見る間に力強く立ち上がって来た。寒さで枯れかかっていたのが、蘇ってきた。青さ(緑さ?)が違ってきた。太さも違ってきた。

 

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あれこれ雑多なことを雑多に考えて昼間の退屈を凌いだ 終わり

2018年03月01日 17時52分10秒 | Weblog

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そこをどうするか。思い通りに行かないときの己をどうするか。どう輝かせるか。日当たりに出して来て、そこでどう輝かせるか。

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仏陀はどう教えているか。即身成仏という教えがある。そこでそのまま己を輝かせることができる人を仏陀と呼んだのではないか。どんな状況にあろうとそこを日当たりとする、そういう判断をして己を明るくする。

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明るくなる智慧、それが仏法のような気がする。大陽はいつも輝いているのだから。その大陽にいつも守られているのだから。

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だから、日陰者かどうかなどという議論は本質を逸脱している。蛇足に過ぎない、そういうふうに喝破して、あとは空の哲学に依拠していればいいはずだ。理論上は。

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それがそうならない。この老爺は不満だらけだ。鬱々としている。この男は己を日陰者にするのを一芸としているのかも知れない。

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子供の貧困、若者の貧困、シングルマザーの貧困、老人の貧困などという社会問題は、しかし、空の哲学などに逸らさないで、白日の下に曝して、論議を深めねばならない問題である。議論では駄目だ、解決を見なければならない。

 

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あれこれ雑多なことを雑多に考えて昼間の退屈を凌いだ その2

2018年03月01日 17時50分05秒 | Weblog

すべてを幸福にしてくれようとしているのだが、それを人の方が、己の智慧を優位と見做して、拒否しているというケースもあるかも知れない。何らかのそれらしい勿体をつけて。そこに転がっている安っぽい幸福になんぞ乗るものか、などと。

あらぬ方向に話が曲がってしまった。日陰の花に戻ろう。是はたとえばの話。金・銀・銅メダルを手にして笑えた人はほんの数パーセントに過ぎない。残りの人はそれだけの努力をして試合に臨んだとしても、会心の笑みを笑えなかったのではあるまいか。

いや、オリンピックの試合にすら出られなかった人も居る。地方大会の一回戦ですでに負けを喫した人だって居る。いやその一回戦の選手にすら選ばれなかった人も居る。いや、体力が劣っていて、そういうスポーツなんかまったくやれないという人も居る。

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彼らはみんないわゆる日陰者なのだろうか。そんなことはない。皆等しく燦々と日が降り注ぐ日当たりに居るのだ。等しい量の光が等しく射してきているはずだ。

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だから栄光の人を讃えてあげればいいのだ。それで日当たり者の仲間入りが果たせるのだ。こころの底から讃えてあげられるかどうか。不純物が雑じっていたりするかも知れない。でも、ともかく讃えてあげられれば、それで日陰からは逃れられるのだ。

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あれやこれやと考えてみた。もうそろそろこの一回のブログの結論に辿り着いておかねばならない。

世の中は思い通りにならない。不本意な生き方に甘んじることが極めて多い。実力を思う存分発揮してそれに見合う結果を手に入れた人の方が、寧ろずっと少ないかもしれない。

 

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あれこれ雑多なことを雑多に考えて昼間の退屈を凌いだ その1

2018年03月01日 13時13分05秒 | Weblog

日が当たるところと当たらないところがある。日が降り注ぐ日向に居るのはここちよい。気分が開放される。湿っぽい暗い冷たい日陰にいるのはここちよくない。閉鎖される。

日陰から日向に出て来る。出て来ることができれば、そうしたい。そうできないこともある。そういうときにはじっとしている。それしかない。忍耐の時だ。

日陰でも咲ける花がある。日陰の花というのは鬱屈を強いられているにも見えるが、意外とけなげなのかもしれない。そうやって根気強くいつか日を見るときを待ち望んでいるけなげな姿勢を讃えたくなる。

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草も木も歩けない。だから従順でなければならない。高い山があると深い谷が出来る。日が昇って来るときに日を受ける斜面がある。夕日の時に日を受ける斜面もある。そのどちらとも日を受けない谷底もある。だが、草や木が山を跨いで歩いて来るわけにはいかない。

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人には足がある。だから歩くことが出来る。日陰にいるのが嫌なときには、日向に歩いて来られる。動きが可能だ。足止めを喰らわなければだが。

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不幸というのは幸福の日が射して来ないことだとすれば、幸福の日は不平等である。大陽は万人を照らしてくれる。すべてを幸福にしようとしてくれているはずである。

 

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メダルを貰えなかった選手は拍手の陰で辛いだろうなあ

2018年03月01日 12時17分00秒 | Weblog

ピョンチャンでの冬期オリンピックが終わった。(パラリンピックはこれからだけど)日本勢の活躍に目を瞠った。取得したメダル数はこれまでと比べて最高。

高木選手の姉妹は取得したメダル数が合計5個。姉妹で5個。金、金、金、銀、銅のメダル。高木家はきんきらきらに輝いているだろうなあ。日本勢の冬季オリンピックでは、前代未聞の記録だろうなあ。凄い業績だなあ。これは惜しみない応援を送った日本人の全体の誇りでもある。国の誇りでもある。それだけ日本中を元気づけてくれたのである。嬉しいことであった。

でも、もらいたくてももらえなかった選手がほとんど。圧倒的多数。その人達は悄げているだろうなあ。帰国後の団体解散式をテレビで見た。メダル獲得者のインタビューがあった。華やかだった。その拍手の陰で、しょぼんとしている人たちのことを思った。辛いだろうなあと思った。きっと、これをバネにしてまた捲土重来を図るだろうが。次の4年間が長いよなあ。

北朝鮮がオリンピックに参加した意義は大きいよね。これを機に、雪解けムードになってくれればいいがなあ。スポーツは平和の祭典。スポーツ以外にも平和が拡大して欲しい。

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わたしに至り着くまでの時間の長さ空間の広さがここでは0になっています

2018年03月01日 10時33分43秒 | Weblog

「舎利弗よ、何が故に名づけて、一切諸仏の護念したまふところの経となすや」

仏説阿弥陀経より

サーリプッタ尊者よ、あなたはどうしてこの阿弥陀経が、尽十方もろもろの「仏たちの護念する経典」と名づけられるのであろうか。祇園精舎に於いて説法されている釈尊はお弟子の一人に問いかけられました。

この老爺は今日はここで涙したいと思います。

涙しようとたくらんで涙をするのか、とたしなまれるかもしれません。でも、わたしの場合は鈍感が過ぎていますから、こうでもしないと感動をしてくれないのです。ご苦労が聞こえて来ないのです。

この説法をされているのはお釈迦様です。説法を聞いているのはお弟子たちです。お弟子たち以外の方々もたくさん雑じっておられたかも知れません。

ここは祇園精舎です。ギバという人が寄進された広大な精舎です。煉瓦造りです。ここを訪ねたことがありました。50歳の時にインドへ行きました。

お釈迦様は阿弥陀経を説いておられます。経典の主人公は阿弥陀仏です。この阿弥陀仏のなさったことをたくさんの仏たちが讃えておられます。ガンジス川の砂の数ほどの膨大な仏たちが声を揃えて、「護る、後押しする、全面協力する」と宣言しておられます。みな宇宙仏です。壮大なスペクトラムです。

「古い話じゃないか」と一笑されるかもしれません。説法されたといってもなにしろ紀元前の話です。古い話なんです。説法が為された後、数百年が経過して紀元後になって漸くこの経典が編纂されました。それからしてももう何千年と月日が流れています。

それを現代を生きる者が信じられるかどうか。いまは2018年になっています。でもそれをわたしが読んでいます。そしてその時間を一挙に圧縮して0までしてしまいます。

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わたしの前に仏陀=お釈迦様が立っておられます。お弟子の一人の舎利弗尊者もいます。説かれている第三人称の阿弥陀仏や宇宙仏がいます。みんながわたしを見ておられます。

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そこまで来てじわじわ涙が湧いてきます。これがわたしを潤す沢水の源流になります。

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わたしは説法の中身が理解できないでいます。それでとうとう長い長い説法になってしまいました。とうとうガンジス川の砂の数ほどの仏たちが宇宙の隅々から名乗りを上げてこられました。そしてまたわたしに向かれます。

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わたしはそれを見て圧倒されています。入れ替わり立ち替わりしてわたしを口説かれます。口説き落とそうと懸命になられます。

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それが嬉しくて、わたしはただ涙を感じてそこに突っ立っています。

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わたしに至り着くまでの時間の長さ、空間の広さは推し量ることも出来ないほどのはず。それがここではマジックの0になっています。わたしの耳に説法の声がぼそりと聞こえて来ます。

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この問い掛けの答えをサーリプッタ尊者は答えることが出来ません。彼もまたただ涙になっています。

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厠の入り口に「善男」「善女」の札が掛かっていた

2018年03月01日 09時54分53秒 | Weblog

昨日お昼に山の中の、谷川の傍の蕎麦屋さんを訪ねた。厠にふさわしい外の藁葺き屋根のトイレに行ったら、入り口にそれぞれ「善男」「善女」と書いた札が掛かっていた。悪男のわたしはちょいと躊躇ってしまった。入っていいものかどうか。迷った。なりすまそうと思った。善男になりすますしかない。なりすました。ちょろちょろと谷水が流れて、それがわたしの悪と不浄をきれいさっぱり流してくれた。

仏典にはよく「善男子よ」「善女人よ」という呼びかけの表現がされている。日本語の「おぼっちゃん」「おじょうちゃん」よりかはちょっと年齢が上の人かも知れないが、こうしてお釈迦様が説法を聞く人たちに親しく呼びかけられている。絶対平等の人間観を貫くお釈迦様からすると、人間皆、無等等の善人だったに違いない。

山中の蕎麦屋さんの経営者もまたそれほどの絶対平等の人間観をされていたのかもしれない。でなければ、用が足せない人が出て来る。

尿は善人悪人を嫌わない。厠に立つと絶対善の谷水となって岩穴の奥処から溢れ出してくる。

「悪をも恐るべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」 親鸞聖人もそう諭している。「弥陀の本願」は、ここの蕎麦屋の厠では、ちょろちょろの谷水がその任に当たっていた。自然界にも善悪がない。なべて一様に絶対善である。

厠の内外で、しばらく考え込んでしまったので、玄関の味噌桶の大甕の中に置いてきた傘を忘れて帰ってきてしまった。店に入るときには雨だったが、返るときには止んでいた。そのせいだ、傘を忘れてしまったのは。老爺のせいではない。痴呆症健忘症のせいではない。

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夜中の雷音はまさしくライオンの雄叫びだった

2018年03月01日 09時46分23秒 | Weblog

まさに嵐だった。夜中の雷音はライオンだった。雄叫びだった。ライオン以上だった。天空が唸った。バリバリバリバリ地響きがした。天から飛行機が墜落したような音も何度かした。幾度も幾度もゴロゴロゴロゴロと爆音が地引き網を引いていった。屋根瓦が恐怖で震えた。春の嵐がここまで荒れるとは予想できなかった。

今は当地は収まっている。日本列島を東へ東へと移動したようだ。微風ももう吹いていない。空はしかし灰色のままだ。雨は降っていない。静けさが戻って来た。

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