わたしがわたしの安心を拾うために、今日は蓮如聖人の御文章を取り上げる。わたしは曲者だから、この安心も曲解である。臍曲がりだから、安心も舞曲を舞う。
*
「このゆへに、南無と帰命する一念の処に、発願(ほつがん)廻向(ねこう)のこころあるべし。これすなはち、弥陀如来の凡夫(ぼんぷ)に廻向しましますこころなり」
蓮如聖人の「御文章(=御文)」より
わたしがわたしの安心を拾うために、今日は蓮如聖人の御文章を取り上げる。わたしは曲者だから、この安心も曲解である。臍曲がりだから、安心も舞曲を舞う。
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「このゆへに、南無と帰命する一念の処に、発願(ほつがん)廻向(ねこう)のこころあるべし。これすなはち、弥陀如来の凡夫(ぼんぷ)に廻向しましますこころなり」
蓮如聖人の「御文章(=御文)」より
左目が先程から逆睫(さかまつげ)になっていて痛い。擦っても擦っても正常化しない。どうも眼が開けていられない。何がどうあっても、不自由する。ちょいとでも正規の軌道を離れると、途端に困惑する。裏返せば、つまりいつもは肉体のすべての器官が正常化して機能しているということだ。それを知るためにもときどき常軌を逸して不便を感じた方がいいのかもしれない。さもないと感謝を覚えないで突き進む。
それにしても、肉体を健康にするすべての条件、100の100乗個ほどの条件が一つ残らず、きっちり調和していなければ、一日だろうとうまく快適に暮らせないという事実。この事実様をもっと大事に丁重に扱わねばならないように思う。
いつもの古湯温泉に来ました。山の中です。霧雨が降っています。山道を傘を差して高校生が歩いて帰って行きます。英龍温泉荘の湯に浸かります、これから。熱い湯と温い湯と二つの浴槽があります。交互に入ります。350円です。一時間ほどここで遊びます。傘を持ちませんから、裏手の駐車場からは濡れて行きます。
13
きみにラブレターを書きたい。甘い甘いラブレターを書きたい。チョコレートよりもマシュマロよりも甘いのを。
14
きみを唸らせたい。この世がこんなに素敵なところだったのか、わたしはこんな素敵なところに生きていたのか、と言わしめたい。
15
分かったよ。好きなようにしたら! 声が掛かる。
声が掛かるけれど、その肝心の熱い熱いラブレター、甘い甘いラブレターが書けない。1時間経っても2時間経っても。どうしよう。
16
こうしてそれはここまでは願望に終始する。でも、気持ちはある。願望は実現するための願望。いつか書き上げてみせたい。
未知の遭遇の、未知のあの人に貢ぎたい。尽きることなく。いつの日にかいつの日にか。
*
(読者諸氏は、本物のラブレターが読めなくて、ちょっとがっかりされただろうな。お許しを)
9
「キミガ キライ ダ」「ムシ ガ スカナイ」「ドウニモ スキニ ナレナイ」などなどの失望溜息が地下牢にじめじめして暮らしていると、黴菌がそこに付着する。
10
この世にはおいしい料理が列べられているのである。何処に此処にも。その折角のおいしい料理を腐らせてしまうことはない。黴菌は一掃したい。
11
黴菌の嫌うものが愛である。愛はラブレターに満ち満ちている。だからこれが功を奏すのである。
12
ラブレターは、この世のおいしい料理をおいしくして味わわせてくれる調味料になるのである。それをたらふく食べて死にたいじゃないか。
5
読んだらいきなりその場でノックダウンしてしまうような熱い熱いラブレターを書きたい。
6
愛(LOVE)というのがどんなに熱いものか、たっぷり思い知らせてあげたい。
7
愛はすべての怨念憎悪を溶かしてくれる化学薬品である。愛はすべてを肯定してくれる智慧の果物である。
8
せっかくこの世に生を受けながら、他者を否定して捨て鉢に暮らすなんてのは嫌だ。「きみを憎んでいる」や「きみを恨んでいる」は言わない方がいい。できれば、言わない方がいい。
1
きみにラブレターを書きたい。
2
ふ。そういう「きみ」がいるのかな。
3
いてもいなくても、どっちでもいいから、ラブレターを書きたい。
4
「愛している」を言えるなんて、そういうきみがこの世に居てくれるなんて、なによりなにより素敵なことだからだ。
少し風が出てきたようだ。庭の南西の隅の南天の葉っぱがぶるぶる震えだした。風の音もする。空のどっかが太鼓になり笛になり鉦になっている。遊びには行くなということなのかな。ほほう寒くもなって来た。せっかく色香に目覚めた梅花が、その細い首根っこを押さえて縮み上がっていることだろう。可哀想に。
家の中にじっとして潜んでいるのも、なんとまあ(悪)知恵のない。どっかへ行きたいなあ。遊んでくれる人がいればいいのだがなあ。だあれもいない。たとい何処へ行っても、鬼ごっこの鬼だけだもんなあ。寂しいよ。「もういいかい まあだだよ」 遊びの呪文を聞いてくれる人なし。鎮守の杜の椎の木の根株。蹲(うずくま)るための根株。だったら雨、ざあざあ降って来い。雷ギャアギャア鳴って来い。
臨済宗「宗門安心章」の一部分の読解。わたしのわたしふうの安心読解術。そのラスト
9
これは楽な生き方だ。気を抜いていい。安んじていい。無用の心配を捨てていいのだから。仏教は、とびきり楽な生き方を勧めて来るもののようだ。
10
とかなんとか、書き連ねたが、「じゃおまえはどうか?」と開き直られると、ギブアップする。日常のわたしは、仏教なんか一度も聞いたことがない、などとしらを切っている始末。その行動たるや、まっこと俗物で、俗悪のそれで、妖怪ぶりもいいところである。
*
(6回通してお読み頂くだけでも、骨が折れたでしょうね。長々しくくどくどしく書いているから。すんませんね。これはあくまでわたし本人を安心させるための眩ませ術、いわば「蛸の墨」です)