<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしは絶対平等に生まれ着いた者であり、絶対平等に死んで行く者である

2018年03月21日 17時34分18秒 | Weblog

仏教に「平等覚」という言葉がある。平等という覚りを得た人が「平等覚者」、つまり仏陀である。阿弥陀仏である。釈迦牟尼如来である。「わたしは絶対平等に生まれついている者であり、絶対平等に生きている者であり、全体平等に死んで行く者である」という自覚に到達できた人である。分かり易く表現すると、「他者とわたしを比較しないでいい」「仏陀とわたしを比較しないでいい」ということだ。もっと突き詰めて言えば、根本の処、大元の処、時空を超えた処では、「わたしが仏であり、仏がわたしである」ということだろう。根本は一つなのだから、一つであれば、不平等はない。「二つに分けられない前のわたしがいる」ということである。戻って行けばその一に帰って行けるということである。「対立を超えた絶対一から生まれ出たわたし」ということだ。

夕方になった。あれこれそんなことを思った。もちろん空の雲といっしょであり、流れて行く思惟である。確証は得られていない。

親鸞聖人の和讃に「平等覚に帰命せよ」という一節がある。この平等覚を得た人がブッダである。ここでは阿弥陀仏のことである。つまりは絶対安心を説いているのである。いつ何処に居ても、無限に無条件に、絶対安心をしていていいということだろう。

ところがそれをそうさせぬものがある。迷いがある。無明がある。煩悩がある。我が心の中につねに矛盾する対立概念がある。これが問題なのだ。

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鰻屋さんに来ています 客人と

2018年03月21日 13時15分38秒 | Weblog

鰻屋さんに来ています。客人と。客人は櫃まぶし、わたしはせいろ蒸し。金額は同じです。贅沢ですねえ。鰻屋さんに来るなんて。一人ではとても来ませんけど。でも満席です。お金持ちがいるんですねえ、当地にも。ウナギの骨の乾燥が小皿に出されました。続いて料理が並べられました。では、いただきます。

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古くなったわたしに取りすがって泣いて悲しんでいてはいけない

2018年03月21日 11時45分38秒 | Weblog

「すべての事象は過ぎ去るものである。修行者よ、あなたたちは怠りなく修行につとめなさい」

お釈迦様の最後の旅での、修行者たちへの遺言である。

すべての事象は過ぎ去っていく。立ち止まらない。そこにいつまでもある、ということがない。あったという跡形すらも見えなくなる。

過ぎ去って行くものに執着をしてそこにひとり立ち止まっている。過ぎ去ることなく悲しみに耽っている。苦しみに喘いでいる。楽しみに浮かれている。過ぎ去って行くものに悲しみを寄せ、苦しみを巻き付け、楽しみをつかまらせている。

道は遠い。仏陀への道は遙かに続いている。怠りなく、立ち止まらないで、なすべきことをなしなさい。修行を完成させなさい。仏智見を開いて、あなたたちすべてが仏陀と成りなさい。

自灯明 法灯明。自らを灯りとして歩きなさい、法を灯りとして歩きなさい。仏道を歩きなさい。法とは仏陀の説法、あるいは説法の中で説かれた仏智、あるいはその仏智に見えて来る真如、具体的な宇宙のエネルギーのことである。

すべてのものは過ぎ去って行く。わたしが生きていたことも死んで行くことも、それがそこには留まってはいない。つまり、次へ次へと新しく新しく進展していくのである。其処に身を委ねていればいいのである。古いもの、古くなったわたしに執着はいらない。古くなったわたしに取りすがって泣いて悲しんで、取り残されてはいけない。

すべては新しく新しく次へ次へと進んで行くのである。わたしもあなたも、時間の宇宙も。

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じゃ、やっぱり悶々としているしかないよなあ

2018年03月21日 11時36分20秒 | Weblog

温泉に行く資金が乏しくなりました。お金ですねえ、万事。底をついた状態では、行ったところで、楽しめませんよ。食事なしの素泊まりでも1泊4000円を超えますからね。誰か、パトロンが現れて来ないかなあ。世の中には貧乏人も多いけど、百万千万長者もわんさといる。「よっしゃ わしにまかせとけ」などと啖呵を切って、まかり越して来られたら、でもでも、この頑固老人は、恭しく両手を差し延べて受け取れるかなあ。疑問。恩義を受けることは束縛を受けること。束縛は嫌だしなあ。じゃ、やっぱり悶々としているしかないよなあ。

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今日は春分の日 お彼岸の中日で 休日 雨降り休日

2018年03月21日 11時18分49秒 | Weblog

春分です、今日は。で、休日。わたしは老爺ですから毎日が休日ですけど。

春分は二十四節気の一つ。辞書によると、大陽の中心が春分点上に来たときの称。春分を含む日を春分の日という。春の彼岸の中日に当たる。昼と夜の長さがほぼ等しくなる。自然をたたえ生物を慈しむ日。(実際には何をすればいいのでしょう?)

彼岸会がおこなわれます。7日間の仏事。平安初期から調停で行われ、江戸時代には庶民の間に降りて来て年中行事となった。彼岸参り、彼岸詣でをします。お寺に行って説法を聞いてお墓参りをします。

彼岸は、仏教語で「川の向こう岸」を指す。向こう岸までには生死の海が横たわっている。ここを渡って行く。するとその終局地点、彼岸に悟りの世界がある。涅槃寂静という静かな世界がある。

わたしは怠け者ですから、お寺参りを省略しています。年中数回しかお墓参りもしていません。お彼岸が来てもそうです。春分の日を超えたら一気に春めいてくるでしょう。こちらも桜の開花が宣言されました。

 

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よお~し 今夜の食事に食べてしまおう

2018年03月21日 11時12分00秒 | Weblog

畑においしそうな肉厚の韮が生えている。いかにもやわらかそうな。そこへ小雨が降り注いでいる。青い茎(兼 葉っぱ)がしとしとしとと濡れている。気持ちよさそうに。

よおおし、摘んで来て、今夜の食事に食べてしまおう。豚肉少々の味付けにしてさっと炒めて。青みを目で楽しんで。香りを鼻で楽しんで。

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エクスタシーを考える ラスト

2018年03月21日 11時02分25秒 | Weblog

瞑想もまたエクスタシーに似ている。ここを入り口として死を瞑想できる。生きながら死んで死にながら生きていられる。仏陀の涅槃入滅にもこの過程が覗えるような気がする。涅槃は火が消えている姿を指している。涅槃は同時に寂静なのだ。静かに静かに自然自然におのれの生命の火が消えていくのだ。それを見ていられるのだ。それに付き合っていられるのだ、しかも平然と。モルヒネによって酔わなくとも。

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エクスタシーと言うことを今日は考えてみた。わたしの範疇を超えて外に出て見る、と、そこにも世界がある。そこに立って見る。従来のわたしが、従来通りでなければならないとしてきた観念、いわば恐怖観念のようなものが消失する。恐怖が取り払われた後には、歓喜が、気圧の著しい変化のようにして、入り込んでくる。生の恐怖、死の恐怖、憎しみの恐怖、恨みに恐怖、人間はたくさんの恐怖といっしょに暮らしている。それを実体のない「空」や「無」とした仏教は、その教え自体がエクスタシー剤だったのかもしれない。

いろいろ考えて来た。我流に。エクスタシーは思考の停止に効果を持つのかも知れない。大事大事にしていたありとあらゆる邪念を捨ててしまうと、気持ちが良かろう。さぞかしさぞかしさぞかし。いやいや、ほんとうに、邪念妄念の「外に出て立つ」ことができるのかもしれない。そこに新鮮な春の親潮黒潮が流れて来ているのかもしれない。

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エクスタシーを考える その4

2018年03月21日 10時57分31秒 | Weblog

「法悦」とも訳されている。空也上人は踊り念仏を勧められた。踊って踊って念仏を唱えるようにして歌って歌って、痺れて、麻痺して、法悦の境に入る。「となうれば仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」人間の持つくらいの理屈理念では仏の念仏は唱えられないのだ。考えていたって、南無阿弥陀仏それきりにはなれない。空也上人の吐く息の先には6体の阿弥陀仏が見えていたという。

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セックスのエクスタシーもそうである。理念理屈や善悪の中に止まっていては、野蛮な野獣のような子孫繁栄の行為はできることではないので、エクスタシーの麻薬でもって常識や固定観念を痺れさせてしまうのだ。その実践の後には、しかし、また元に戻ってそれを悔いる。侮る。しばらくして野獣から聖人に戻ってくる。エクスタシーは、一時の苦痛の、その通過行事の快適快楽ホルモンでもある。理論がこれで実践化され易くなる。理論では赤ちゃんは生まれない。

 

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エクスタシーを考える その3

2018年03月21日 10時52分22秒 | Weblog

日本語では「忘我」とも訳されている。いままでの我を忘れてしまうのだ。其処でなければ生きて行けないとしていた砦を、決然と出てしまうのだ。「有頂天」とも訳されている。有頂天は仏教語で色界第4天の、最も上位に位置する色究竟天(しきくきょうてん)。此処まで来ると得意の絶頂となる。なんでもかんでもが嬉しい。なんにもなくとも嬉しい。嬉しいだけになれる。

「恍惚」とも訳されている。アフリカの原住民は夜昼朝、次の日の昼夜朝、太鼓を叩いて踊って躍り疲れて忘我する。そすて恍惚の美酒を手に入れる。これを飲んで魂の脱離を起こさしめる。狐憑きとなる、神がかりとなる。太鼓を叩かなくとも裸足で踊り明かさなくとも、そこに至るにはいろいろな方法がある。古代、日本でもそういうことは繰り返されていた。火祭り火渡りなどの古代伝統神事もそういうものなのかもしれない。ともかく「何かある一事」に徹底してこれを貫通させて突き詰める。するとついでに悲しみも苦しみも忘れてしまう。病んでいることも老いていることも忘れてしまうことができる。これもいい。

 

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エクスタシーを考える その2

2018年03月21日 10時47分54秒 | Weblog

エクスタシー(ecstasy)は、辞書に拠れば、ギリシャ語<skstasis>から来ている。「外」と「立つ」の合成語である。なるほど魂がいままでいた世界を超えて、「外に出て悠然と立っている」状態を指す、というわけか。

「魂の脱離」の意ともある。人間が崇高な神と合一した忘我の神秘的状態か。なるほどこれは崇高で神秘的だろう。「神」でなくとも言いかもしれない。ともかく高い高いところに行けるのだ。そこにもここにも世界がある。そこへ入って行く。そこでいままでの概念、古い着物を一気に着替えてしまう。こうなれば新しいわたしを満喫できる。そういう愉楽がありそうだ。

 

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