ああ、いい一日だった。血管の中をずっと血液が新鮮に流れていて、途中停滞をすることがなかった。生き延びた。こういう一つ一つが有り難く思える。老いたからだと思う。いつ停滞をしてもおかしくはないのだ。手の甲を走る静脈が青い。夜の9時半を回った。ベッドに入ってやすもう。あらたまって今日様にお礼を申し述べよう。楽しい一日を恵んで頂きました。
葉室麟さんの原作、映画「散り椿」を見た。今日が最終日だった。観客が多いかなとおもっていたが、わたしを含めてわずか3人だった。主演男優の岡田准一のかっこよさだけが目立った。2時間、チャンバラを見せられた。殺しのシーンが凄惨すぎたのではないか。わたしは鈍感。感動のジンジンが襲って来ることはなかった。
帰り道に多久温泉がありました。少し高くなっているところです。結婚式場、宿泊施設、レストラン、プールなども兼備した広々とした施設でした。温泉の泉質が滑らかでした。露天風呂は緑色をした岩の岩風呂でした。立ち上がると天山が眺められました。入浴料750円分長めに入っていようと思っていましたが、高級感に馴染めず、早めに上がって来ました。
厳木町にある作礼山の中腹に、「環境の森」という紅葉園があります。そこへ行って来ました。入園料500円。山坂の右左に美しい紅葉の森が広がっていました。ベンチに腰掛けてお弁当を食べました。1時間ほど見て回りました。家族連れがたくさんでした。お天気もよくて快適でした。
朝になっている。光が足元に届く。秋晴れのいい天気だ。広がった空が薄いブルー色だ。その飛びっきり上等の今日に、わたしが出遭わせて頂く。よろしくお願いします。新入生の挨拶のような、そんな一言が洩れる。
当たり前にあり得ているように見えているが、極めて奇特なことなのだ、これは。耳に言い聞かせる。大空を見上げる。見上げただけで嬉しくなる。この大空の下に、こうしてにっこりしていられるのだ。
畑の野菜達はたっぷり露をもらって、潤っている。生き生きとして輝いている。老いているが、わたしもこうありたい。生き生きと今日を生きて輝いていたい。できる限りそうしていたい。そう思えて来る。非物質のこころは、老いていないのだから。
初めて出遭った今日の、今日さま、どうかよろしくお願いします。ふつつか者でございますが、どうかよろしくお願いします。
もう寝ようか。うん。そうしよう。夜明けまでには数時間ある。寝て起きて、起きて寝る。真夜中何度もその繰り返しをする。で、合計するとたっぷり寝ていることになる。8時にベッドインして、6時にベッドアウトする。延々10時間の銀河鉄道の旅だ。
立派なことをしていない。考えてもいない。どうすればそうなるかも問い詰めていない。ただ、易々としている。なのに、こうして生かされている。これじゃバランスが取れていない。何だか申し訳がない。
偉いことをしていない。偉くない。なのに、こうして命を守られている。善因がなくて、善果を与えられている。何だか申し訳がない。
人のために尽くしていない。社会貢献活動もしていない。ひとり我が儘に、ぬくぬくして暮らしている。何だか「片手落ち」ならぬ「片手上がり」のような気がする。
種も蒔かずに、収穫だけを横取りしているようで、詫びたくなる。処罰もない。それでもいいという状況を許されている。有り難いことだけれども、有り難いだけではすまないような気持ちがする。
真夜中である。2時を回ったところ。目が覚めた。ダム湖満水を解消する。すっきりした。こちらは「すっきりした」で一段落したのだが、果たしてそうか。
夜中も腎臓や膀胱などの諸器官が起きて働いていてくれたという証拠である。ねぎらって、お礼を申さなくてはならない。それで、真夜中のわたしの息が繋がっているのである。
体温が適温に保たれているのである。指に指を当てて、体温をいつくしむ。氷になっていない。ほのかに温かい。