まだ7時前である。であるのに、この老爺は早々とベッドに沈んでいる。夕ご飯も食べた、晩酌の芋焼酎も飲んだ。薬風呂の湯も浴びた。あたたまった。いい気持ちになっている。とろんとろんとろんしている。もう正気がない。寝る以外、何も出来ない。極楽蜻蛉スウイスイ。出来上がり。
たやすい。
まだ7時前である。であるのに、この老爺は早々とベッドに沈んでいる。夕ご飯も食べた、晩酌の芋焼酎も飲んだ。薬風呂の湯も浴びた。あたたまった。いい気持ちになっている。とろんとろんとろんしている。もう正気がない。寝る以外、何も出来ない。極楽蜻蛉スウイスイ。出来上がり。
たやすい。
6
さあ、これからのブログに何が登場してくるでしょう。書き手のわたしは二つの手の平を大空に向けて開いています。此処が宇宙基地になります。これがパラボラアンテナの役割をします。宇宙全体のエネルギーが飛び込んで来ます。わたしはそれを受信します。エネルギーを音に替えてそれから言葉に替えます。
雑音だけというときもあります。その時は速やかに除外放逐して下さいね。
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互のダイアモンドの読者諸氏のみなさん、今後ともよろしくお願いします。
5
独というのはダイアモンドです。ダイアモンドの輝きを放っています。偉大なる働きの一個のアトムです。これが途方もない大きなエネルギーを秘めています。しかも底なしです。
だから小さくても徒(あだ)疎かには出来ません。過大評価をするには及びませんが、過小評価は禁物です。それと意図しないでも、無限大の力を発揮してくれます。意図しないでもいいというところが魅力です。
4
東の空から朝日が射してきて、庭がずず、ずずずいと眩しくなっています。わたしの眼前のこの眩しさはいったい何を明示しているのでしょう。
眩しさというのもすべての人のもの。共通項ですよね。いや、後がない老醜老耄老残の身には余計に眩しく眩しく映ります。
3
独というのは淋しいものですね。11月23日が始まりました。さあ、今日の独をどう慰めて、どう励まして生きてまいりましょうか。
わたしは老いています。随分と老いています。悲しいかな、見るからに老醜老耄老残の身です。それでもよいしょと立ち上がって、頂いた一日を押し頂きます。
2
読者諸氏も生きておられますが、わたしも生きています。この地上に在って互い違いに、出遭うこともなく、離ればなれに生きているのですが、何処かで共通項があるのかもしれませんね。
独生独死、独去独来という共通項が。群れているようで、その実は独。一人。一人を生きている。
1
昨日一日でこのブログを訪れて下さった方が375人。PV回数は1900回を超えていました。たくさんの方に読んでもらえてこのブログも喜んでします。有り難うございました。
読者諸氏と話をすることは、しかし、現実にはありません。きらきらきらの夜空の星の輝きを見ているようです。
隣家の瓦屋根に霜がおりています。うっすら白くなっています。冷え込みました。厳冬厳寒が目の前に来ています。
家内を送って行きました。早朝6時半。福岡空港行き高速バス停まで。長い階段を家内は重たいトランクを抱えるようにして登って行きました。車のフロント硝子にも霜が真っ白でした。
帰宅して電気炬燵に火を入れました。あたたまっています。
大空をお迎えします 目の奥のわたしの秋は狭いでせうが 薬王華蔵
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大空とわたしは分離していません。別個ではないのです。無関係の関係などではないのです。親しい間柄なのです。行ったり来たりしています。何かあると互いに尋ね合っているのです。今日はわたしが大空をお迎えします。大空は広大無辺ですが、わたしの目の中にすっと入ってしまいます。わたしの目の中では縮小拡大が自在に起きてしまいます。
わたしも憂いを深める秋にいます。その秋の奥の間にあなたをお迎えします。勿論此処で宴を催します。狭いところですがどうぞおくつろぎ下さいと宿の主人のわたしが先ずご挨拶をします。「華やかに行きましょうね」「ええ、そうしましょうね」気分が乗ってきました。
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大空がわたしの外に広がっているという認識も成立しますが、同時に、ここが不思議なところですが、わたしの内に広がってもいるのです。そういう認識も成立可能なのです。大空だけに限りません。目にしている風景は目の外にあるように見えてしまうのですが、そうとばかりは言えないところもあるのです。みな対(つい)なのです。一対なのです。切れ目なく繋がっているのです。対でなければ存在し得ないというカラクリを含んでいるのです。
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これもまた落選歌です。でもわたしは歌いたいのです。わたしに訪れて来た思いを言葉にして歌にして歌いたいのです。
入り日して不意に涙す 百舌鳥(もず)の鳴くためにはあらずただただ不意に 薬王華蔵
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感傷がわたしを訪れて来ます。いつと決まっていません。それが今日は入り日のときに声を掛けて来ました。秋が深まって百舌鳥がひときわ高い音を響かせて鳴いていますが、その為に落涙したのではありません。不意に、唯々不意に人生の悲哀を覚えてしまったのです。悲哀はいつもこころの奥にあります。淀んでいます。それが或る日突然堰を越えて流れ出してしまうことがあるのです。
あなたにはそういう不測の事態が起きてしまうなんてことはありませんか。
落涙をしたからといってそこで人生がいきなり好転をし始めるということもないのです。偶々吹いて来た風にただただはらはらと山茶花が散るように、はらはらと涙したくなってしまうのです。
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これも落選の歌です。出来損ないの落選の歌を此処に上げるのは失礼かもしれません。心の内を誰かに聞いてもらいたいのです。