<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

老爺の楽しみというのは、ま、こんなもんだった

2018年11月25日 23時44分58秒 | Weblog

何が楽しかったか?

① 一人の穏やかな日光浴が楽しかったよ。② 椅子に座って青空を見ているのが楽しかったよ。③ 小葱を育てているところへ行って草取りに励んだのが楽しかったよ。④ 愛情のつもりで牛糞肥料を根元に一掴み置くのが楽しかったよ。⑤ 最後にホースでたっぷり水を撒いて上げるのが楽しかったよ。⑥ 楽しそうにしている僕を眺めていた小葱も、やっぱり楽しかっただろうと思うよ。⑦ 相思相愛というところかなあ。これがいいねえ。⑧ 人間との相思相愛とはまた違った趣があるよ。⑨ ふふふう。そうかなあ。などと、そこで蜘蛛さんの突っ込みが入った。

老爺の楽しみというのは、ま、こんなもんだった。こんなことをして、今日が楽しめた。それでいい。

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強い眠気に襲われている

2018年11月25日 19時08分54秒 | Weblog

午後7時10分。それではおやすみなさい。就寝する。ちょっと早過ぎない? うん、おおいに早過ぎる。それは認める。でも、抗えない。無抵抗。

でももう起きていられない。強い眠気に襲われている。目が開いていられなくなっている。とろんとろんとろん。目が回る。くらくらくら。極楽蜻蛉だ。

たぶん、2時間したら目が覚める。それからが長い。とてつもなく長い。2時間後といえば、9時だ。眠気眼をして、ととととと一回目のトイレに向かう。

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日が暮れるのが早い

2018年11月25日 17時27分01秒 | Weblog

日が暮れた。日が暮れるのは早い。とうことは? 夜が長いということになる。

夕食も早くなる。お風呂に入るのも早くなる。寝るのも早くなる。人様は遅くまで起きておられるようだが、我が輩は早い。

晩酌に焼酎を飲んだら効果覿面だ。すぐにうつらうつらし出す。睡眠薬よりもうんと効き目がある。

早く寝たらその分早く目を覚ます、ことになる。2~3時間間隔で目が覚める。トイレに通う。これが日課だ。

トイレは昼間は遠い。朝起きて日が暮れるまでに1~2度でいい。

夕食の時間だ。呼ばれている。行かなくちゃ。

 

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草は如来の全身である 木は如来の全身である ラスト

2018年11月25日 09時00分12秒 | Weblog

あらためて我が身に言い聞かす。

草は如来の全身である。木は如来の全身である。如来を拝む。尽十方界を押し頂く。

此処にいまわたしがいるのである。生きているのである。如来の全身のただ中にこの老爺が如来の全身の、いのちを生きているのである。

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草は如来の全身である 木は如来の全身である その7

2018年11月25日 08時55分23秒 | Weblog

百草が文字を書いている。万木が文字を書いている。尽十方界に生きるすべてのいのちが如来の経を書いている。

書かしめているのも、もちろん如来である。如来のハタラキによってそうしている。

そうしていられる自分を示唆されて静観できれば安心が得られるはずである。

そうであるのに、右往左往する。戸惑う。迷う。疲労困憊する。そのわたしの哀れな姿に向かって草や木が教えを説いて説いて、繰り返す。

 

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草は如来の全身である 木は如来の全身である その6

2018年11月25日 08時51分32秒 | Weblog

そういうふうに道元禅師が教えている。自らの言葉を文字にして経巻にしている。これを聞く。そして本道に戻ってくる。

道を外れて道に迷って明け暮れている己を、此処へ連れ戻す。そして息を吹き返し、如来本来に立ち戻る。安心をする。

われわれはいつも眼前に草や木を見ている。草や木の教えを聞いている。そして現に安心を得ている。慰められている、励ませれている。力を貰っている。

 

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草は如来の全身である 木は如来の全身である その5

2018年11月25日 08時44分51秒 | Weblog

もちろん、わたしも如来の全身である。如来の舎利である。変わることはない。どんな差別も加えられてはいない。

不謹慎だが、わたし自らが如来の経巻である。我が身に仏の教えを書き教えを実行実践しているはずである。それをそうとして認識していないけれども。

それを恥じて恥じて遠くに遠くに退いて、めそめそして暮らしているのだが。

その故にこそ仏の教えを聞かなければならない。わたしは草の文字を読んで、木の文字を読んで「わたしは如来の全身である」ことを突きつけられる。

「汝はは違(たご)うことなく如来を生きている」それを聞く。それを経巻にして聞く。ひたすらに聞く。

 

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草は如来の全身である 木は如来の全身である その4

2018年11月25日 08時42分28秒 | Weblog

尽十方界はこれ如来の経巻にあらざるなし。

「経巻はこれ如来舎利なり、如来全身なり」(道元禅師、如来全身巻より)

経巻はサンスクリットで書いてあるものをのみ指すのではない。漢語に訳された蔵書をのみ指すわけではない。紙の上に書かれたものをのみ、仏の経巻というのではない。

尽十方界がすべてそうなのである。如来の経巻である。そのハタラキをしている。そうでなければ、われわれは安心して生きていられないじゃないか。

 

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草は如来の全身である 木は如来の全身である その3

2018年11月25日 08時38分30秒 | Weblog

文字にしてあるから読めるはずだ。何と書いてあるか。「

わたしは如来を生き切っております」と書いてある。

「今日ただいまのわたしでパーフェクトです」と書いてある。「余談なし」と書いてある。「評価なし評論なし」「付け加えず 減らさず潰さず」と書いてある。

(これはわたしの耳がさっき聞いたことなので、他の人の耳にはそれ以外で聞こえていて当然である)

 

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草は如来の全身である 木は如来の全身である その2

2018年11月25日 08時36分17秒 | Weblog

草が文字を書いているというのだ。木が文字を書いているというのだ。読もうとすればだから読めるはずである。何の文字を書いているか。仏教の経典を書いているというのだ。仏の教えを説いているというのだ。仏・如来のする仕事を草や木がしているというのだ。だから、草もこの時は如来である。木もこの時は如来である。押し頂いて目に見、耳に聞く。

草や木が切々と仏の教えを説いている、昼夜を措かず。

 

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