<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

とろとろ

2015年11月29日 10時14分38秒 | Weblog

「囲炉裏火はとろとろ、外は吹雪」の季節がやって来た。ハミングをする。囲炉裏はもう切ってない。薪も炭火も燃えてはいない。灰がとろとろになってもいない。けれども、この歌を口ずさむとあたたかくなる。全身の骨がとろとろになってくる。

「冬の夜」  文部省唱歌

1番

燈火ちかく衣縫ふ母は/ 春の遊びの楽しさ語る/居並ぶ子どもは指を折りつつ/日数かぞへて喜び勇む/囲炉裏火はとろとろ/ 外は吹雪

(長四角の囲炉裏がたしかにあった。炭火をたすのは子供の役目だった。お母さんが破けた服を縫って修理してくれた。これは懐かしい。ああ、愛されていたんだなと思える。春の遊びは外でする遊びだった。芹を摘みに小川へ行ったし、遠足へ行っておにぎりも食べた)

2番

囲炉裏の端に繩なふ父は/ 過ぎしいくさの手柄を語る/居並ぶ子供は ねむさを忘れて/ 耳を傾け こぶしを握る/囲炉裏火はとろとろ/ 外は吹雪

(父は騎馬兵だったから、馬の話をよくしてくれた。戦地での手柄話はついぞ聞かなかった。手柄なんか立てなかったのかもしれない。よかったと思う。父の自転車の荷台に乗って蓮の実を取りに行ったことがなつかしい。逞しい父の背中の匂いを嗅いでいた)

ああ、冬の夜が来ている。さぶろうはもう70才。とっくにこどもではなくなっている。というのに、この歌をくちずさむとまだほんの子供だ。そこに囲炉裏火はとろとろ燃えて、外は吹雪している。

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快楽は安穏の具か

2015年11月29日 09時26分42秒 | Weblog

栄華物語には、刀利天女の快楽を受けた男の物語があるらしい。ここでは「快楽不退」らしい。永く永く持続して衰えないらしい。人間界のそれは「カイラク」だが、刀利天ではそれは「ケラク」となるらしいから、快楽不退も「ケラクフタイ」となる。将棋では歩が裏返ったらたちまち金になる。

六欲天の天界第5番目に化楽天(けらくてん)がある。ここに生まれた者は化楽の能力を身につける。すなわちあらゆるものを楽しみに化してしまう能力である。だから化(か)して化(ばか)して8000年才を保つ。楽変化天(らくへんげてん)とも化自楽天(けじらくてん)、化自在天(けじざいてん)とも言う。化は化けるとも化かすとも読む。とにかく何でもいいのだ。なんでも楽しみに変化させてしまうのだから。

話が逸れるが化け物はお化けが上手だ。戯(おど)けがうまい。道化(どうけ)者なのだ。しかしどっこい、それをもこれをも楽しんでいる楽しみの名手なのだ。右にも左にも上にも下にも活動活躍の幅が広い彼は、ある日は大化けをして毘盧遮那如来をして遊んでいるかもしれないぞ。

『仏説無量寿経』には「すでに我が国に到(いた)りて、快楽安穏(けらくあんのん)ならん」とある。「我が国」とは阿弥陀仏の国、極楽浄土である。ここまで来れば、見るもの聞くものを快くしていられるのだ、すべてを楽しんでいられるのだ、こころ安けく穏やかにしていられるのだ。

そこまで行かねば、快楽も安穏も手に入らないのか。それとも別種なのか。此処に居てその上等上質の快楽を味わってみたいという気にもなる。

その楽しみが残してあるというのか。なんでも生きている内に手中に収めてみたいけれども、先の先の楽しみも残してもおきたい。

オセロゲームのように黒の石がたちまちのうちに裏返って白になるというのも快感の一つである。仏教ではこれを「転(てん)」といってある。転回の転である。ぐるりと回ると同じ物がまったく反対のものになっている。ひっくり返すといった方がいいのかもしれない。

快楽は白の面。では黒の面とは何か。

この世にいる間の快楽は黒面で、次の世、つかり仏界に到達すればこれが引っ繰り返って快楽(けらく)の白面になるのかもしれない。

10

そうして、われわれは「なあんだ、それだったら初めから我が所有物だったじゃないか」とそこで臍を噛むのかもしれない。

11

何処にその差があるのか。自利に使ったら快楽の黒。利他に使ったら快楽(けらく)の白なのかもしれない。

12

決め手はわたしひとりのためにわたしを安穏にしないことかもしれない。わたしの安穏のためには快楽しないことかもしれない。だったら、いま生きているさぶろうにはここにはとうてい手が届かない。

けらくあんのん

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相思相愛

2015年11月29日 08時20分30秒 | Weblog

音楽は音の楽しみと書いてある。だが、音のみが楽しみを与えているわけではない。他にもいろいろ与えられている。

赤い山が与えている赤山楽。抜けるような青空が与えている青空楽。彩りを添える雲海が与えている雲海楽。雲の間を悠然と飛び回る鳥が与えている飛鳥楽。満ちている月が与えている満月楽。欠け始めた三日月が与えている浪漫の三日月楽。

舞を舞うのが舞楽。スポーツをして汗を掻くのがスポーツ楽。働いてこころを満たすのが働き楽。家族が食べる食事を料理するのが料理楽。

ことばを放って相手を無上界に誘うのがことば楽。触れて自他ともにクライマックスに達するのが触楽。

それぞれの無数の楽しみと付き合っているだけで飽かない。飽かないで生き抜いていけるようにさまざまにさまざまに。浅く深く広く狭く。淡泊に濃密に。素っ気なく厚ぼったく。細かく太く。

そのどれもがもともと与えられているものである。どうぞどうぞご自由にお使い下さいなのである。仲買人がときどきお金を請求してくるが、ほんとうのところではお代は求められていない。

施しは嫌だという人も中にはいる。手作りでなければ気に入らないという人もいる。しかし、そうそう肩肘を張らないでもいいかもしれない。工夫は必要だが、その材料となるものは畢竟やはり与えられているものなのである。

昨日はまる一日と言っていいくらい音楽をして暮らした。YouTubeで大好きなヴァイオリンの名曲を聴いて過ごした。腹一杯になった。ジュリア・フィッシャー、ヒラリー・ハーン、ジャニー・ジャンセンの音を極めた名演奏にうっとりした。

腹一杯になったけれどもそれで即人品が豊かになったとは言いがたい。腹が減ったらもう音楽は詰まっていないで空になる。たかだかそれくらいの音の楽しみなのである。浅いといえばこれくらい浅いものもない。

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これでいい。空になったからまた聴ける。聴く楽しみがまた得られる。

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楽器はヴァイオリンだけではない。これを聴く耳もまた楽器である。耳だけには留まらない。歌う口も喉も楽器である。

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楽しませる器がその機能を発揮してどんなに楽しませようとしていてもこれを楽しむ器が閉じていたら努力は水の泡になる。

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風景を見る目も楽器である。それで楽しんでいるからである。楽しませようとしている風景の意思をキャッチして目がこれをたっぷりと楽しむなら、相思相愛となる。

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楽しんでいるものが楽器と言えるならわれわれは数限りない楽器を備えていることになるが、其の中には一度も活用をしたことがなくてすでに錆びてしまっているものもあるのかもしれない。

15

だとしたら惜しい話だ。(なんだ、これが結論だったのか)

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快楽

2015年11月29日 06時43分41秒 | Weblog

日曜日。降ってはいないようだけど。寒さは和らいでいる。さて、人間はそもどれほどの快楽を快楽して死ぬのであろう。不可量不可数。無限種類で無限大で無限回数。これに一々、浅い深いがある。低い高いがある。混じりっけなし、ありがある。一人でできるものできないもの。他者を利するものか、己のみを利するものかの違いもある。何を快楽しているかが人の生きざまを分けている。そんなことが楽しいのかというほどの微かな楽しみというのもある。透明な無色のもある。それぞれ結構楽しめるものらしい。欲深い者の方がそれだけ深く快楽を極めているとも言えない。そこがまた面白い。

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羽生結弦選手世界最高得点 新記録更新

2015年11月28日 19時53分55秒 | Weblog

フィギュアスケート男子NHK杯選手権は堂々の一位。頂点を極めた。連続4回転ジャンプがすべて決まった。落ち着きがあった。練習の成果に違いない。誇りに思っただろう、応援をしていた日本の人がみな。彼は何処まで成長を続けるのだろう。

 

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片雲

2015年11月28日 09時38分31秒 | Weblog

「ここへ来ようとは思っていなかったんです」「じゃ、来ようと思っていなかったのにここへ来てしまったというのかね、あなたは」エプロンをしているドロシーおばさんにそう聞かれてパトリシアはこっくりと肯いた。そんなことはよくあることだった。気づいてみたらここへ来ていたということが。此処が何処であったっていいのだけど。あれあれというまに其処に立っているなんて夢遊病者のようだけど、パトリシアはけっしてそうではなかった。雲が湧いて湧いて溢れて流れ出したらこうなるにちがいない。その場所が雲にとってちぐはぐだということはないように、何処へ行っても、彼女にも違和感はなくてすんでいた。此処へ来ようと思ってここに来ているという人の方がもしかしたら少ないのかも知れない。ここへ来たらここですることがすぐ誕生した。それをしているうちに其処に馴染んできた。いのちが片雲になって旅をしているようだった。

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ヘーゼルナッツの実

2015年11月28日 09時03分25秒 | Weblog

「そんなもんかなあ」と言うと「そんなもんだよ」とすぐに返ってきた。「目的なんてあるようでないのさ」「じゃ、なくってもいいってこと?」「そうだね、目的を立てたとしてもずっと同じじゃないんだ。日々を歩いているから、日々に変わって行ってもいいのさ、別のものに。どんどんどんどん新しくして」会話はこういうふうに続いて行った。「目的がなければ何処へ向かって歩いて行っていいのか分からないだろうに」と片方が言い、「なあに、歩けば歩けないことはないさ」と片方が言った。真面目な方が困惑の表情を浮かべたところで、次の授業の鐘が鳴った。そばにいたイザベラは一言も発していなかったが、ジャンとモーリーはそんなことなど気にもしていないようだった。トンプソン先生は眼鏡がずり落ちそうになるのを何度も食い止めて、ぎょろりとした目玉を生徒たちの誰彼に向けるのだった。ハシバミの実であるヘーゼルナッツが一人の男の子のポケットから取り出されこれが教室中を回った。背中から背中へ渡って。これはお昼休みに校庭の一隅にある丘の上で拾ったものだった。

これを辿って行けばよさそうに思えた。しかし、さぶろうは此処には自分の姿を見つけることはできなかった。空想が空想を追いかけて行った。そのうち何処かで彼は彼自身の昔の姿に出会えるように思った。昔の姿でなくともよかった。これから先の未来の自分でもよかった。ともかく自分のいのちの大河を旅してみたくなったのだった。ヘーゼルナッツではなくて、図書室の棚から団栗の実が転がり落ちてきた。見るからに黄色く堅いものだった。

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そこに意図を感じた

2015年11月28日 07時40分51秒 | Weblog

佐賀県鹿島の祐徳稲荷神社の社殿の背後に山がある。小高い丘といってもよさそうな。鬱蒼と木が茂ってな丘はめらかにとんがっている。石造りの階段があってきらびやかな堂々たる社殿まで上っていくことができる。そこから先にも山道が続いていて奥の院があるらしいが、さぶろうはここを参拝したことはない。

さぶろうは神社の静かなたたずまいが好きである。それでよく訪ねる。神域に足を踏み入れていると自然にこころが洗われる。そういう満たされた感覚がある。

あるときのこと、そうやってこころ満たされて戻って来て、神社の前を流れる大川の橋を渡ろうとして振り向いたら、そこに神が出現していた。

そうとしかさぶろうには思えなかった。背後の山の真後ろから這い上がるようにして山頂から瑞光が帯になって社殿の上空を貫き流れ込んでいた。光の川がまっすぐな眩しいばかりの帯を造っていた。帯の横幅はさほど広くはない。それがぐいぐいと流れ込んで飛沫して轟いていて、全身が天空を駈ける龍のようだった。虚空を貫く生きた生き物のようだった。

それはそれを見上げているさぶろうを押し潰すほどの威厳があって、その神の迫力にただただ圧倒された。これは天空で起こっていることだったから、誰もが目にしているはずだが、橋を行き交う人々に驚歎のどよめきはなかった。

さぶろうはこれを見た。そしてそこに意図を感じた。もう数年も前のことであるが、驚きはいまだに新鮮である。

それよりもずっと前にも同種の感動があった。これは海の上の雲と光の天体ショーで、日が沈む夕暮れ時だった。モーゼの海渡りを見ているようで、しばらく身動きが取れなくなってしまった。この種の厳かな天空のショーはよくあることなのかもしれない。

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怪奇な天空のショー

2015年11月28日 07時22分10秒 | Weblog

昨日のお昼間。怪奇な天空ショーが起こった。実に神秘的だった。まったくの偶然が造り上げた天空の造形だったのだろうが、それがそうとは見えずはっきりとした意思を持ってさぶろうに臨んでいるかのように思えた。さぶろうは引き締まった。ここから何を聞き取るべきか目を凝らしてみていた。それは長方形だった。はじめそれが正確を期した長方形だった。そして奥行きがあって厚かった。そこに青空のスクリーンが張られていてそこから光が発射されてさぶろうへ届いていた。長方形を作っているのも白い雲、奥行きを造っているのも白い雲だった。長いことそうしていた。書斎にいてこれを見ていたのだが、さぶろうは目が離せなくなった。何をそこに読み取るのか。読み取るべきだとしながら読み取れなかった。なぜ雲が正確な長方形を造って見せたのか。そこからあれだけの光がさぶろう宛に届けられてきたのか。はっきりとした意図があったはずだが、その意図は達成されなかった。するうちに長方形が緩みだした。崩れて小さくなりだした。ただ不思議だった。多くの人にもそれが見えていただろうが、これはさぶろうひとりのためだったような気がして慄然とした。

 

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わが内なる菩薩さま 億万の菩薩さま

2015年11月28日 06時53分25秒 | Weblog

たださぶろうを生かすそれだけのためにさぶろうに無数の血管が走っている。それが浮き上がっている。この血管の中を赤い血が流れている。胸の心臓が拍動してこれを動脈血管に押し出し、全身の隅々にまで行き渡らせ栄養を送る。消費が終了して不要物となったものが静脈の血管に吸い取られ胸の心臓へと戻って行く。この間に五臓六腑がそれぞれの役割を果たす。眠っているときも目覚めているときにもこれらの活動は停止することがない。するとさぶろうは生き生きとなることができる。でも終始さぶろうは何食わぬ顔をしていられることになっている。我関せずにしていられる。労賃を払うわけでも報奨金をさしあげるわけでもない。お礼も言わない。言って欲しいとも言わない。「あなたが生きていられるのはわたしたちの無償アクテイビテイのせいですよ」などと恩も着せない。どちらもそれを当然としていて構うことがない。さぶろうの全身の、大小の血管の中を赤い血が流れている。ひたすらひたすら。無言の行をしている。行が終わったものはいつのまにか消滅して新しいものに交替をしてこの利他行を譲って行く。まるで万億の菩薩さまのように。これで悪さぶろうが清浄を保つ。健康を保つ。仏陀を仰いで仏道を歩むことができる。守られ支えられ助けられていることがかたじけなく、そしてこの朝はいきなりそれがひどくすまないことに思われる。

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